子どものことを「心配する親」は、子どもを傷つきやすい子にしてしまい、子どものすることに親が口を出し、手を出すことは子どもにとって全く有害無益であるかのように感じられます(待てない親のこころに詳述)。
それならば、今度は「我が子のことを心配しない親などいるはずがないんだから、親は子どもに対してどうかかわればいいのか、わからないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
これについては、心配がダメなのではなく、心配の程度が大事だと思われます。親の「適度な心配」というところが子どもには大事であると考えられます。
そもそも「心配」とは外界の人物、事物、あるいはその将来などの対象に向けて危険を予測する心の働きですが、臨床心理学的に言うと、「心配」とは、自身の「不安」を外界の対象に投影しているものです。
心配は、外界の心配の対象が引き起こすのではなく、もともとその人の心の奥底にある基底的な「不安」が対象化された形で外に向かって出現したものです。
「取り越し苦労」などと言われるように、何でも過度に心配する人は自分の心配を、実は本当のところ馬鹿馬鹿しいことだと思っていたり、後になってそう思ったりすることもあるわけです。
他にも例えば、何度も何度も手を洗わないと汚れているようで心配でたまらなかったり、ドアの鍵を何回も確認しないと心配で外出できないといったような強迫神経症の方は、その心配や確認行為が全く無意味であることは百も承知ですし、実際、心理療法によって「不安」の軽減が図られると、その「心配」は跡形もなく消えてしまいます。「心配」は、実際、自分でコントロールできないものではないようです。
話題を元に戻して、「キレる子」にしないためには親の心配の程度が大事であり、「適度な心配」が子どもには必要であると先に述べました。
つまり、これは、子どもが要求したときにそれをきちんと満たすこと(保護)、子どもが横道に逸れたり、人格的に未熟であるが故の取り返しがつかないような失敗をしたりしないか、しっかり見守ること(干渉)は必要ですが、子どもが要求していないのに過度に心配して先取りしてその要求を満たしてしまうこと(過保護)、子どもが自分でやろうとしているのに先回し、心配をして手を出したり口を出したりすること(過干渉)は避けなければならないということです。
親や教師は保護的、干渉的に子どもに関わることが必要であり、過保護、過干渉な子どもへの関わり、つまり母性過多は確実に「傷つきやすい子」を生んでしまうということです。
保護、干渉と過保護、過干渉の境界線は、子どもの性格や行動の特徴によっても大きく異なり、これはこうだとはっきり言えるものではないでしょう。
大事なことは、大人たちが自身でコントロールが可能であるはずの「適度な心配」を子どもに与えることだと思われます。
最も深刻なのは「心配しない親」です。
この場合は「傷つきやすい子」にするというよりも「傷ついた子」にしてしまうという方が当たっている気がします。
子どもに保護も干渉もしない、そして子どもを愛せないという親です。親が子育てに拒否的で、いわゆる無関心であったり、無視するような場合、これは子どもの人格形成に決定的な影を落とすものです。
親の温かい母性の中にどっぷりと浸る安心した関係をもてずに育った「傷ついた子」は、生涯にわたってその傷を癒さなければなりません。