「反抗」を親・教師はどうとらえるか−
 反抗には、成長の過程の中で一般的に見られる自立に向けての「反抗期」があります。

 2歳から4歳頃に見られ、親に駄々をこねたり無理な要求を突きつけたりする第一反抗期、そしてもう一つが自己アイデンティティの確立を目指した思春期にみられる反抗期です。

 自分では気づかなかったと思っている人でも、おそらく早かれ遅かれどこかの時期で必ず経験しているのでしょう。
 この誰もが経験する反抗も、家庭や社会で許容される範囲のものであれば「問題」とはされずに、知らず知らずのうちに克服されているものと思われます。
 ところが、この「問題」とされる場合は、他人に多大な迷惑をかけたり、自分や他人を傷つけたりしている場合です。
 この場合は、親も教師もうんと注意深くその子どもの内的な世界や置かれている状況についてきちんととらえ直しをする必要があります。


 思春期の子どもの反抗を理解しようとする際、多くの場合、次の二つの視座(阜・冨永 *2)から理解するとよいでしょう。

 一つ目は「厳しさへの反抗」という視座です。これは周囲の大人からの関わりが過度に父性的である場合です。社会のルールに則って、感情や衝動に流されることを戒め、理想を追求し、より高い意識へと導く「父性」は、『頼りがいのある』『物事に動じない』『威厳のある』『権威のある』『指導的な』というような肯定的側面を包含しています。

 ところが過度に父性的であるとすると『支配的な』『頑固な』『威圧的な』『厳格すぎる』『独裁的な』『横暴な』『上から押さえつける』ことになってしまいます(吉田
*3)。

 さらに過度に父性的であり、子どもの内的世界との交流がみられないような場合には、「冷たさへの反抗」と子どもの眼には映るかもしれません。

 子どもが拒否的で放任されたと感じる場合、冷たく血の通わない大人として感じてしまうことがあります。
 家庭内に乳幼児期から母性が欠落し、過度に父性的であるような場合、確実に子どもの「荒れ」が年齢とともに進行していきます。
 もちろん、家庭における母性は母親だけが担い、父性は父親だけが担うというものではありませんから、家庭内の父性、母性のそれぞれの機能がどのように担われているかというところに目を向けるべきです。


 学校においても、小学校でみられる学級経営が困難な状況には、担任が、結果的に子どもの内的世界との交流をおろそかにしてしまい、担任の「支配的な」「威圧的な」関わりに反抗している例もみられます。
 
 また、指導者の指導観が揺らいだり、自信のない対応をしてしまっていることがありますが、その隙をつく形で起こる荒れは、父性の肯定的側面が欠如した例と言えるでしょう。


 二つ目は、「甘やかしへの反抗」という視座です。産み育てはぐくみ、親密かつ継続的で母子を満足感、幸福感で満たす母性は『保護的な』『包み込むような』『ぬくもりのある』『家庭的な』『自己犠牲的な』という側面を包含しています。ところが過度に母性的であると『過保護な』『過干渉の』『口うるさい』『呑み込むような』『溺愛する』『甘やかす』ことになってしまいます」(吉田 *3)。

 父性欠如と母性過剰は、不登校の子どもの家庭にみられることがあります。特に家庭内において現実に父親がいても心理的に父親として家庭内で機能していない場合が多く、一方、母親はその父性欠如を埋めるためにさらに子どもに深く関わろうとし、過保護、過干渉になります。

 そして父親は子どもに対してだけでなく母親(妻)に対しても回避的であることが多く、これによって母親はさらに子育てによってこれを代償しようとし、さらに心理的に密着した母子関係が形成されていきます。

 これによって母親に呑み込まれ、自分を見失いそうになる不安を抱えてしまう子どもは、家庭内暴力など、未分化で荒々しい反抗として表しはじめ、思春期になって自立への試みを模索することがあります。学校においても指導者の父性が欠如し、過度に母性的である場合は、だらしのない、けじめのつかない空気として指導者への反抗がみられることがあります。


 大人に対する子どもの反抗の、その意味を理解しようとするとき、上記の二つの視座は重要であると感じています。二つのうちのどちらか一方がという見方でなく、多くの場合はどちらの面をも内包している事例の方が多いように思われます。
 
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