一般に幼児や小学校低学年までの子どもは、大人の禁止や罰を絶対的に正しいものとして信じ、その結果、親や教師に誉められることは正しく、叱られることは悪いと考えています。
子どもの中にまだ自律的な道徳的判断の基準が形成されずに、判断の基準が他者によって与えられているからです。
「○○ちゃん、ずるい」とか「□□ちゃん、〜したはる」という、この時期の子どもは大人の目にはとても分かりやすく、親や教師が絶対的存在であるから、聞いたことには何にでも応えようと努力してくれます(Fig.5)。
この時期の子どもが、たとえ親に反抗的な態度をとったとしても、親が毅然とした態度で臨めば、その理由を長々と説明しなくても子どもは納得するでしょう。
この時期に道徳的基準を与えるのは親であり教師です。この時期に「どうしたらいいか自分で考えなさい」などと、判断を全て子どもに任せてしまうのは大きな誤りです。
例えば、幼児で全くあいさつをしない子どもがいます。
子どもがあいさつをしないことについて母親に尋ねると「この子は赤ん坊のころから人見知りが強くて照れ屋で、人前に出ると何も言えなくって」というわけです。
ところが保育園では、「照れ屋さん」どころか他の友達の持ち物を奪って逃げ回って遊んだり、保育園の先生の言われることの揚げ足をとって先生をからかったりしています。
母親は「時期がくればひとりでにあいさつくらいするようになるでしょう」と言い、父親は「まだ小さいんだから、それほどガミガミ言わなくてもいいだろう」と言います。
この例は、我が子をかばって「照れ屋」「時期がくれば・・」と親が「甘やかし」ています。
「甘やかす」と「甘えさせる」とでは、大きく異なります(甘やかしに詳述)。
うんと「甘えさせる」ことは、この時期に必要ですが、「甘やかし」は子どもがどんな時期にあっても必要がないものです。「身勝手さ」「わがまま」と、子どもの個性が親の中で混同されてしまっていて、本来、有無を言わせずしつけなければならないところがなおざりになってしまっています。
「甘やかす」と「甘えさせる」が誤解されているとも言えます。
この子どもが思春期になったとき、果たしてあいさつができるかどうかは疑問ですし、その時には、しつけようと思っても、もう遅いことがほとんどです。
もし、この子どもが思春期を迎えて、親があいさつをしないことを強く咎めたとしたら、おそらく「不健全な反抗」という形で自分の意志を表示するでしょう。
2歳から4歳の頃に見られる「あれ買って」「これがほしい」と駄々をこねるなどの、いわゆる第一反抗期の反抗は健やかな子どもの成長にとっては大歓迎です。
この反抗は、親の判断で必要な物は買い与えるけれど、必要のない物、贅沢だと思える物については要らないということをきちんとしつけたり、駄々をこねると周りの人にも迷惑を及ぼすのだということを身をもって教えることができるからです。
ところが、この時期、大人の禁止や罰を絶対的に正しいものとして信じ過ぎ、その結果、親や教師の顔色をうかがってからでないと動けない子ども、親や教師の言ったとおりにしかできない子どもは、自立に向けて実にさまざまな形で「反抗」を表現します(背のびしているよい子に詳述)。
幼児期に親の手のかからない「よい子」も、本当のところは駄々をこねて、当然、親にうんと甘えたいのですが、親のこころの動きに敏感で、そうしたくてもできないでいるのです。もし、そんなことをすれば、自分は悪い子になってしまって居場所を失ってしまったり、「そんなことを言えばお母さんは私から離れていってしまうんじゃないか」という不安に駆られるからです。
そういう「よい子」だった子どもは、
「センセイ、あのね・・・」
「お母さん、○○ちゃんがね、・・・」
というふうに、長い間、大人から与えられた道徳的判断基準の枠の中に居るわけですから、一方ではとてもしつけやすい子であるわけですが、枠からはみ出すことが少ないので、かえって児童期の後半や思春期の入口など、遅くからはみ出して周りの大人を試そうとすることになるので、長期化する深刻な問題として受け止められることが多いようです。
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Fig.5 「反抗と道徳的判断力」 |
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小学校3年生くらいになると、道徳的判断基準はだんだんと同世代の友達の中につくられていきます。同世代の友達との遊びの中で「遊びのルール」として存在したり、「約束」という形でその基準が存在します(Fig.5)。
この時期からは、道徳的判断基準を親や教師から一方的に与えられるのを嫌がります。
同世代の仲間と一緒に道徳的判断基準について考えたり、道徳性を集団で育てる時期であると言えます。もうこの時期にはしつけはできないと言っていいのかもしれません。
同世代の友達との心のやりとりの中で考え、自然に身につけていくものであると考えられます。