「登校できない子」には「泣いている子」のように、必ずその子と直接、会えるとは限りません。
そうなると教師は「こころを使う」ことはできないと考えてしまいますが、決してそうではありません。
登校できなくなると、担任の教師は家庭を訪問することになりますが、その際、訪問する側の「訪問の目的」が曖昧であることが多く見られます。
授業の連絡物や家庭学習用のプリントを家庭に届けるための事務的な家庭訪問もあれば、親との面談をしに行くこともあります。
ただ単に顔だけ見せに行くこともあるでしょうし、あるいは子どもの学習につき合ったり、一緒に何かして遊んだりということもあります。
その際に、担任の教師はどのような目的で会いに行っているかということは大変重要なことです。
まず大事なことは、こころを使って「子どもに会いに行く」ということです。
話好きの親が家にいらっしゃると、ついつい親とだけ面談してしまって時間が過ぎていくということもありがちですが、家庭訪問する側の担任教師の構えとして、まずは子どもに会いに行くということが大事です。
もちろん、面と向かって話すということは苦痛が伴うこともありますから、学習の道具とか、その子の好きな遊びなどを媒介として関わりをもとうとしてよいわけです。
ところが、直接会いに行っても子どもがそれを断ったり嫌がったりすることもあります。
その際、強引に直接会うことはできません。
むしろ断ったり嫌がったりする気持ちが表現できたことの方がその子にとっては大きな意味があるのですから、その拒絶したり嫌悪感をもっている、その「こころ」にコミットすることが大事です。
この場合、会いに行く教師も長い時間は辛いですから「5分だけ」とか「玄関先で」というように、時間や場所に区切りをつけ見通しをもったほうが、お互いに楽なこともあります。あるいは家の中に入れないこともあるでしょう。
必ずこうしないといけないなどと決して思わずに、少しずつ子どものこころの「窓」を子どもと一緒に探しながら関わりをもとうとすることが必要です。
登校できなくて、苦しくて、やせ細って怯えている「こころ」に会いに来てくれる教師の思いや気持ちは、その時にはすぐに届かなくても、いつか子どものこころに届くはずです。
そういうメッセージが子どものこころに届くようになると、だんだんと子どもはいつもいつも会いに来てくれるその教師にも、必ずこころを自ら動かしてくれるものです。
登校できなくなると、その時は毎日のように会いに行くが、登校できない状態が長く続くと1週間に一度になったり、2週間に一度になってしまうこともあります。
だんだん教師が足を運んで会いに来てくれないとなると、子どもは教師に見捨てられたような感じをもつことも少なくありません。
そうなると家庭訪問は子どものこころにとって、かえってマイナスですから、教師は少なくとも1年間くらいは同じように会いに行くことができるペースで会い続けることが必要です。
教師も無理をすると長く続けることができません。心を使って会うということは、教師にとっても大変なことです。時間を決めて「○分まで時間をとっているから・・」と先に子どもにも親にも了解をしてもらっておくとよいでしょう。