具体的な例で教師が「登校できない子」に「こころを使う」ということを考えてみます。
教室や保健室に、一人でぽつんとしゃがみ込んで「泣いている子」がいたとします。
どのように関わるでしょうか。声もかけずに放って置くということはまずありません。何がしかの声をかけて、その子どもに関わろうとします。
多くの場合、「どうしたの?」「なんで泣いているの?」というように声をかけます。
つまり、「なぜ、この子はここで泣いているのだろう」という理由や事実経過、その場の状況(客観的な事実・外的事実)を尋ねようとします。
泣いているわけを知ろうとします。
いわゆる「頭を使って」理解しようとします。
そうすると、「泣いている子」は、何も話せず、そのまま泣き続けて、どうして泣いているのか分からない周りの人たちはオロオロするだけで、どうしようもなくなるわけです。
しかしながら、「こころを使う」ということは、そうではありません。
「つらいことがあったんだね」などと声をかけたくなります。
今、泣いているその子の「こころ」にコミットしたくなります。
この「したくなる」というところも大事にします。
その子にとっては、今、ここでそうして、何か泣かずにいられないほどの辛いことや悲しいことがあって泣いているんだろうから、「泣いている子」の「こころ」に思わず、あるいは自然にコミットしたくなるのです。
その子どもにとっては泣かずに居られないほどの事実(主観的な事実・内的事実)があったわけだから、今、悲しくてたまらない、やせ細って脅えている、その「こころ」に関わろうとしたくなります。
そうしてしばらくすると、「泣いている子」は自分の辛さ、苦しさを受け止めようとしてくれる人には、尋ねなくても、後からその状況や事実経過も自分から話してくれることがあります。
「泣いている子」を「登校できない子」と置き換えて読んでいただくとどうでしょうか。
「泣いている子」と同じようなことが「登校できない子」への関わりにおいても起こっていることがあるのではないでしょうか。