Fig.12のとおり、心理相談室で行う心理臨床の専門家の行う心理療法やカウンセリングは、クライエント(相談者)の内的な世界に深く入り込み、クライエントがどんなふうに考え、どんなふうに感じ、どんなふうに生きているかというようなことを、セラピスト(面接者)がこころを砕いて感じ取ります。
時にはクライエントの抱える問題を直面化したり、さらには対決したりというふうに、これはセラピストにとってもクライエントにとってもたいへん厳しいものであり、安易にそうかそうかと聴いているわけでは決してないわけです。
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Fig.12 「こころの海」 |
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「セラピストは指示してくれない」とよく言われますが、「指示しない」というのは「答え」が見つからないからなのであり、心理臨床家といえども「人のこころ」がそう簡単に理解できるものではないからです。
「応える」ことはできるが「答える」ことはまずできません。
「指示しない」のではなく「指示できない」のです。わからないから、わかろうとして見守り「待つ」わけです。
この「わからない」というスタンスをセラピストが取り続けることによって、クライエントは自分をより深く解ってもらうため自分の内的世界について多くを語り始めることができ、そしてその中でセラピストは評価せずに焦らずに寄り添い続け、待ち続けることによってクライエントに本来備わっている自己治癒力、自己回復力を引き出し高めていくのです。
これは非常に厳しい、しかも高度な専門性が必要とされる作業であり、気の遠くなるほど広い、深い「こころの海」をひたすら見つめ続ける作業でもあります。ここに心理臨床家が「見守り、待つ」ということの必然性が生じるわけです。
水面上で日常的に起こる「教室に行けた」「行けなかった」「友達と遊べた」「遊べなかった」というような外的事実をその水面上から観るのでなく、セラピストは水面下に深く潜り続けて、そのこころの中ではどのようなことが起こっているのかという水面下に観られる内的事実から水面上の外的事実を観るわけです。
それはキラキラと輝きを放ったり、時には色を変え、姿を変えて水面下から覗くことができます。
これはたった一つのこころの中に多くの人格を見いだす作業なのかもしれません。
教師は一時間の授業の中でクラス40人の人格と毎日触れあいますが、心理臨床家は一つの「こころの海」の中に一時間潜ってそこに40個の人格を見い出そうとしているとも言えます。
心理臨床家が行う「見守り、待つ」という作業を、同じように学校教育相談において行うということは、空間的にも時間的にも、そして人的にも、そう簡単にできることではありません。
では、教師はいったいどんなふうに「こころを使え」ばよいのでしょうか。