教師は「キレる子」に対して何ができるのでしょうか。
結論から言えば、「キレる子」のこころの「傷」を、そのあるがまま受け止め、それをしっかりと支えることができるかどうかということが最も大事なことだと考えられます。
キレる子の傷は必ず対人関係によって引き起こされているのですから、傷を癒す作業は対人関係によってのみ可能になります。
「時が解決する」ということも実際あるのかもしれませんが、傷を癒す作業を傍らできちんと理解し、受け止め、支えてくれる大人の存在と、その大人が自分のありのままの姿を見守り続けてくれているとき、子どもは安心して傷を克服しよう、修復しようとすることができるものです。
子どもが自分の「傷」を話すことができ、それを受け止める他者がいる間は大丈夫ですが、例えば教師が忙しい、友達がいない、親が不仲であるなど周りの人たちのなにがしかの理由で「傷」が外界に向かってうまく出せない体験が積み重なってくると、ますますそれを外には出さないよう子どもは「こころの守り」を強めます。
不安が高くなり、もっと強くつっぱって、ガードしておかないと自分の弱さをさらけ出し、さらに「傷」を深めてしまうからです。
部屋に引きこもって外に出られない子どもは、部屋というガードによって自分を傷つきから守っていると言えるでしょう。こうなってしまうと、子どもはなかなか自分の「傷」を人に話そうとしません。
その人が、自分のあるがままを真正面から本気で受け止め、しっかりと支えてくれる「こころ」をもっていると確信がもて安心できなければ、仮に親や教師が「どうしたの?話してみろよ、元気だせよ」と言っても、子どもは口を開かないでしょう。
親や教師が気忙しく走り回っていたり、子どもがそれ以上傷つかないよう環境を整えることに躍起になってしまっている間は、子どもは自分のこころがしっかりと受け止めてもらえないことを肌で感じているからです。
学校で行う生徒指導、教育相談では、キレる子の、この「こころの守り」をはずす援助が一対一の関わりの中でできるのではないかと思います。
もちろん「こころの守り」をはずすのは当の本人なのですが、子どもが安心してつっぱりやガードをはずして、弱い自分をあるがままにさらけ出す作業を「手伝う」ことが教師にはできると考えています。
このためには、子どもと一見雑談とも見えるようなくだらない、たわいもない話をすることもあるでしょうし、子どもの遊びにとことんつき合ってみることもあるでしょう。
しかしながら大事なことは、必ずここには「見守り、待つ」ことの必要性があるわけで、それが結果的に「甘やかし」や「放置」としてしか子どものこころに届かないとなると、この作業は完了しません。
子どもとの雑談から、遊びから、子どものこころの中に深く潜り続けて水面下に見られる内的事実を「観る」「診る」ことが必要です。
子どものこころの、そのあるがままを受け止め、それをしっかりと支えながら見守り待つことによって、初めて「こころの守り」をはずすことができ、子どもは弱い自分を安心してさらけ出すことができるのでしょう。
こころの「傷」を癒すこと、「キレない」ためには、子どもとのこの共同作業が極めて大切に思われます。
子どもが行うこの作業は、教師だけが手伝うのでなく、特に子どもが不登校である場合は、親と一緒に共同で行うことが大事です。
そのためには親とも継続した面談が必要です。こうなると教師は一人では関われないから、ねばり強く親とも面談を重ね、親自身の「こころの守り」をはずす作業を、チームを組んで行うことが必要になります。
「傷」が深く、上述したように防衛機制のレベルの傷つきによって神経症や心身症を引き起こしている疑いのある場合は、速やかに心の専門機関に相談することが肝要でしょう。