親や教師は誰もが忙しくて、自身を振り返ったり、ゆっくり立ち止まって物事をじっくり考えたり、あるいは日々の生活の中でなにがしかの感動を覚えたりといった「心の余裕」を失い、その時々の必要な事柄を処理するのに精一杯なのかもしれません。
子どもたちの多くは、家庭でも学校でも、必要とされる課題を与えられ、励まされ、頑張る、そしてまた次の課題を与えられ、また頑張り続けるというように、毎日の生活を気忙しく過ごしているものと思われます。
子どもたちは自身の好奇心のままに動けるような経験や、一見無駄に思える遊び心で存分道草を食うという体験をもちにくく、いわゆる合理性とか効率のよさを重要視する大人たちのものの見方、考え方の中に埋没させられてしまっている側面が少なからずあることは否定できない事実でしょう。
適度な「遊び心」や「一見無駄とも思える体験」は、生きていくための心のエネルギーを引き出してくれるものであり、さらには適度な柔軟性とか融通性をもたらしてくれるものであると考えられます。このような体験をもちにくくなった子どもたちは、傷つきやすくなっていると考えられます。
しかしながら、ここで大事なことは、子どもたちが「傷つきやすい」という前に、大人たち自身が、その「傷つきやすさ」を強く内包していることに注目しなければなりません。
極めて多様化する価値観の中、親や教師が確固とした自分の信念を自信をもって示しにくくなっているのではないでしょうか。「子育てに自信がもてなくてすごく不安」とか「どうしてよいのかさっぱりわからなくて」という親や教師の相談は実に多くあります。親や教師も多様化する価値観の混迷の中にあって、自分に自信がもてなくなり、子どもたちに威厳をもって相対することが難しくなってきているのでしょう。
自分の信念に基づいて何かを本気で伝える、自分の信念に基づいて威厳のある態度で人に接するという父性の欠如が家庭にも学校にも見られます。
これは私たち大人が自身の傷つきやすさを防衛するためなのではないかとも思えます。激動する情勢の中にあって確固とした信念に基づく自分を確立すれば、傷つきは当然強い深いものになるわけですから、例えばモラトリアムの世代が長くなったと言われるのも、また「社会からの避難場所としての大学院」への進学率が高くなってきているのも、このように考えると頷けるところがあります。
家庭や学校という教育の場における父性の欠如は子どもの人格形成に決定的な影を落とします。
子どもが乗り越える「壁」が、時には子どもの前に立ちふさがり、時にはその力に圧倒され、時にその理不尽さに憤り、反発しながら、その「壁」を乗り越えていくという体験の積み重ねによってこそ、子どもは生きるエネルギーを培っていくものなのであり、反抗する必要のない、手応えの少ない環境のもとでは生きるエネルギーが育ちにくいと言えます。
かつてはこの「壁」が家庭内にはなくとも、地域社会のあちこちに存在していたと思われますが、「壁」は少子化、核家族化、希薄な近隣とのつき合い等々、急激に変化する社会の中で見失われたものの一つになってきているのでしょう。
ですから、この「壁」を乗り越える体験をもたず、さらには適度な「遊び心」や「一見無駄とも思える体験」の中で柔軟性や融通性を年齢相応に獲得できなかった子どもは、ちょっとした人間関係の中でも傷つきやすくなる、生きるエネルギーに乏しくなるのでしょう。ここに「キレる子」のこころを生み出すからくりが存在するのではないかと思われます。
このような視点をもちながら、「キレる子」の理解をすすめていきたいと思います。
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