一般に、子どもの大人に対する反抗は「攻撃性の産物」としてとらえられ、困ったことと認識されることが多いようです。
そうなると「反抗するのはいけない」「大人に刃向かうとは何という奴だ」「ダメなものは何を言おうと絶対にダメなんだ」とでもいうように禁忌を主として教えたり説教、説得する訓育的な指導をすることがあります。
もちろん、これは反抗の初期のある時期においては当然必要でしょうし、その時はそれで反抗が収まったかにみえることはあるかもしれません。
訓育的な指導は、いわゆる「明るい非行」と言われる遊び型の非行には効果がありますが、周囲の大人への反抗心がそのベースにあるような非行行動、「自分探し」のための暴力行動を呈している子どもに対して周りの大人からの関わりが訓育的なかかわりだけであるとすると、これはかえって逆効果であることのほうが多いのではないかと思われます。
自分では何ともしがたい葛藤や不安を抱えたまま、あるいは抱えきれずに、子どもはさらに抑圧を強めたり、ストレスを鬱積させていくでしょう。
今は反抗、非行という形で現れていますが、近い将来、何らかに形を変えて現れてくるであろうことは言うまでもありません。
佐野(*1)が指摘するように、「反抗は子どもの精いっぱいの自己主張」であるとして、あるいは「反抗のなかに潜む自立への願望」であるとして、反抗の意味するものをとらえると反抗する子どもたちの理解の幅は大きく広がり、真の子どもの姿が浮かび上がってきます。
ある高校生女子の非行事例では、母親に激しい暴力を振るい、父親に暴言を浴びせました。
この事例では意図的不登校(怠学傾向)が見られ、不許可の深夜のアルバイトなどの非行は、両親や教師に対して発する危険信号であり、子どもは親や周囲の大人に内緒で行動をしていながら、他方で同時に当然のごとくその意味するところを読みとってもらいたいというメッセージでもありました。
様々な自己破壊的な行動を繰り返すことによって、親は戸惑い、結果的に両親が教育相談の窓を叩くことにもつながったのですから、この子どもの非行傾向は両親や教師に「自分のことをもっとわかってほしい」という悲哀と甘えを込めたメッセージでもあったのでしょう。
非行の状況は確かに深刻ではあっても、視点を変えればこれ以上深刻な状況、たとえば、自室に閉じこもり他者との交流を絶ってしまうとか、自殺企図といったような、より深刻な状況に陥ることを非行行動によって自ら防いでいるわけであり、両親や教師などの大人にとって困ったことであればあるほど、早く気づかれ読み取られることになります。
より退行的な手段としての非行によって、「自分のことをわかってくれない」両親への復讐をしていると同時に、両親との新しい交流の一手段としての「行動化」として表現していると受け止めることができます。今までの親の言うことを聞く「よい子」ではなく、「悪い子」になることによって今まで体験できなかった新しい自分を模索しているのかもしれません。