「反抗」は、言いかえれば「言うことをきかない=言いなりにはならない」、「自分勝手である=主体性がある」とも言えるものです。
素直で大人しく自己主張もできない、意見一つ言うこともできない、親にとっても教師にとっても都合のいい子、どうでもいい子、いてもいなくてもいい子として大人になっていくよりも、たとえ表現の仕方は稚拙でも自己表現ができる子、自己実現に向かって成長しようとするエネルギーがあるのだから、「反抗する」ことは「反抗しない」ことよりも、より望ましいともいえるかもしれません。
もちろん、暴力的な行為による子どもの反抗の自己表現までもが望ましいというわけではありません。暴力的な行為は毅然として制止しなければならないし、いけないことことはいけないということを有無を言わずにきっちり教えることは極めて当然のことですが、それだけでは「反抗」は理解できないし、否定的理解だけでは反抗する子どものこころは動いていかないと考えられます。
幼児期・児童期前半は、クラスメイト、友人の間でも「よい子」が善しとされます。
学力があり、頑張る子、役を引き受けたり、よくできる子は「よい子」として周りから認められます。
ところが、前思春期に、それは見事にひっくり返ります。子どもが大人との距離をとろうとし始めると、「よい子」は一気に面白くなくなり、つまらない存在となり失墜してしまいます。
自分たちの秘密をもったり隠れて何かをすることを好むようになります。
危ないことや望ましくないとされていることをする方が、自分たちの勇気を試したり、友情を深めたり、独立心を育むことができ、ルールからはみ出すことが「面白い」と感じられるようになり、「はみ出す子」が仲間に認められていくと言えます。
前思春期のこの作業に失敗し、こころの傷を負ってしまうことは多くあります。
この時期、親や教師は期待に応えようとしない子どもに、さらに必要以上に手厳しく「なんでこんなこともわからないのか!?なんでこんなことができないのか!?悪いとわかっているくせに、なんで同じことをする!?」と一斉に責め立てることがあります。
子どもが努力してテストのいい点を取る、通信簿の評定を上げるなど、外から見える成長発達は親も教師も認めていますが、子どもの反抗という形での内面的な成長、親からの心理的離乳に眼を向け、耳を傾けようとする大人が、果たしてその子の周りに何人いるでしょうか。
こういうところに問題意識をおきながら、「反抗する子」のサインと関わりについて考えてみたいと思います。