登校できない状態について、もう少し臨床心理学的、発達心理学的に考えてみましょう。
内田(*2)によれば、「登校できないテーマ」はその発達段階に応じて、大きく三つにその姿を変えていくといいます。
まず一つ目のテーマは、一般に3歳前後にみられる「母子分離不安」です。
母親か、または母親に代わる養育者から離れて登校、登園する時などに起こる不安です。
それまで一体化していた母親から分離してたった一人で過ごすということは、子どもにとって実は大変な作業なのであり、とてつもなく大きな絶望感、恐怖感を子どもは味わうのだといいます。
二つ目のテーマは、児童期の「同性同世代の子との遊び」です。
この時期の子どもたちは、ある意味では極めて残酷であり、優劣をつけられる時期でもあります。
同性同世代の仲間と遊べないとなると自分だけが取り残される孤独感に苛まれるなど、とても厳しいテーマであると言えます。これに失敗すると子どもたちは大きな挫折感を味わうことになります。
そして三つ目のテーマは、思春期の「存在感の感知」です。「存在感の感知」とは、たわいのない話を気軽にできたり、自分の気持ちを汲んでくれる、あるいは側に誰かが一緒に居てくれるとでもいうような、自分の居場所が認められ、自分が存在していることを感じるということです。
これが感知できないとなると自分は人にどのように映っているか、周りの人がどのように自分を見ているかということが、すごく気になり始めます。自尊感情が低いとさらに気になり、しんどくなるなど身体の症状として現れることもあるというものです。
この三つのテーマを発達的縦断的にみると、子どもの年齢が高くなればなるほど、克服されるべきテーマの数が移行的に増えていくのではないかと思われます。
例えば幼児期や児童期前半の不登校であれば、乗り越えるテーマは「分離不安」のテーマを抱えていることが多いですが、不登校の時期が思春期、青年期と、後になればなるほど、それぞれのテーマは交絡し合い、その様相は漸次複雑になり、さまざまな他の不適応をも引き起こすことが多いのではないかと考えられます。
高校を急に中途退学する子どもの事例のなかには、3つのテーマが交絡して合わさって見え隠れしているケースもあります。
幼児期の「分離不安」のテーマを児童期前半まで抱えたが大きな不適応行動としてそれは発現しなかったために、それを抱えたまま児童期後半を迎えた。
そして思春期には「同性同世代との遊び」のテーマを「人と合わせる」ことで何とかやり過ごしたかにみえたが、克服されたのではなかった。
そして思春期後半を迎えた今、「存在感の感知」のテーマを高校入学と同時にドッと突きつけられ、自分一人で抱えることができなくなり、どうしたらよいか分からなくなって、高校生になった子どもは学校をやめることでしか自分を守ることができなくなってしまったとも考えられるのです。
さらに年齢が高くなるとこれらのテーマは統合されたり分化するなどして、精神疾患や適応障害、依存症などに姿を変えていくこともあり得るでしょう。
もし青年期までこれらの不登校のテーマを引きずると進学や就職のこと、経済的なことなど、心理的要因だけでなく社会的要因までもが複雑に絡み合い、ますます孤独感を強めていくことにもなり、問題は深刻化していくと思われます。