「一般に心理臨床家は、現実にそこで起こっている事実を実体に即してとらえるというよりも、むしろそれを無視して既成の理論や主義・学派に合わせた理解・説明をするという傾向があります」(成瀬 *1)。
心理臨床家と連携する教師はこのことを知っておかなければならないと思います。
言い古されたことですが、教師が行う子どもや親との面談に心理臨床家の「会い方」をそのままもち込むとすると大変なことになります。
例えば、登校できない子が激しく家庭で暴れて、体中アザだらけになった母親が相談に来られたとします。
その時、「家庭内暴力は反抗と依存と退行の同時的な現れなのだから、そうせずにはいられない子どもの言動に共感的態度で受容的に接することが必要です」とでもいうような大命題がその壇上にあって、母親との心理面接の場面でも積極的促進的な介入は一切せず、その母親の辛さをいかにも分かったような顔をして聴いている心理臨床家は現実にあるわけです。
結果的に母親は、子どもの言いなりになり、長期間にわたって暴力に耐え続け、精も根も尽き果ててしまい、そして時には耐えがたいストレスと無力感、絶望感から、中には我が子を死に至らしめる例もあるのです。
平成8年11月、家庭内暴力で荒れる中学3年の不登校の息子をカウンセリングの仕事に携わる父親が金属バットで殺害するという痛ましい事件が起こりました。
新聞報道によると、このとき父親は「こころの専門機関にかかっており、その指示に従っていた」「息子の要求を全て受け入れ、家庭内暴力には一切の抵抗をしなかった」とあります。
この父親はカウンセラーになれても「父親」になれなかったと言えるかもしれません。
学校はその対応には苦慮しながらも、こころの問題を扱う専門機関の指導に従っていたとあります。
これは、心理、教育の専門家としての役割の重要性を世に問い、その紋切り型の指導に対して警鐘を発する象徴的なエポックであったように思われます。
家庭での暴力に困り果てて来校された親は、聴いてもらうことで自身のその辛さが軽減され、楽になるだろうし、親の子どもへの関わりはいずれ変化していくと思われます。
親が変化してくると暴力的行為は鎮静化するかもしれないし、少しずつであっても、子どもはまた家族との健やかな関係を築いていくでしょう。
しかしながら、こういう心理臨床家は、家庭内暴力を制止したり、それ以上エスカレートさせないために自分には何ができるか、その家族のために自分にはどんなことができるかについて、もし仮に考えたとしても、こころの専門家としての指示や介入は積極的には行わないことがあります。
治療的援助はしても、予防的促進的な指導援助のHow-toはあまりもたないと言った方がいいかもしれません。
もちろん、命にかかわるような緊急を要する場合には、カウンセリング、心理療法にも「危機介入」(crisis-intervention)という概念があり、多くの臨床家が面接室から外に出て動きますが、少々、暴力が激しくなったとしても、教育相談機関に所属する心理臨床家が面接室を出て母親の家庭を訪問したり、暴力を振るう子どもに直接会いに行くということはまずありません。
心理療法では、極めて非日常的で親密な特殊な二者関係を築きますから、セラピスト(面接者)とクライエント(相談者)の双方を互いに守るための「枠」ということをことさら大事にします。
セラピストは自分が直接会っているその人自身にしか責任をもたないというのが常です。ここに教師との明確なスタンスの違いがあります。
こういった点では、教師なら何度も断られ続けても子どもに会いに行き、そして子どもと一緒に散歩しながら雑談する、一緒にテレビゲームをすることなどを通して子どもの「こころ」の動きを「見守り、待って」います。
これが結果的に治療的援助であったり予防的促進的援助であったりすることが限りなくあります。
定期的に家庭訪問して雑談しながらも親の労をねぎらい励ましたり、親でも見逃すような子どものわずかの進歩や努力に肯定的評価を加えて学級通信に書くとか、子どもの良さや持ち味をこまめに連絡ノートで知らせるとか、地域の保護者たちと協力して親がホッとできるような体験をつくるとか、いわば行動療法的な支援・援助をいくらでも実践してきているのであり、親に対する心理的ケアについても教師の方が遙かに多くの指導援助のHow-toをもち合わせているとも考えられます。
これが教師の心理的教育的支援の良さであり、相談機関の心理臨床家には簡単に真似のできない良さであるとも言えるでしょう。
学校や地域や当人と家族を取り巻く様々な人たちの様々な関わり合いや支えの中でこそ改善され回復に向かうわけです。
その地域のコミュニティを適切にコーディネイトしたり、教育相談機関や医療・福祉機関につないだりすることも含めて、教師は実に大きな役割を果たします。
もちろん、学校としてあるいは教師としての指示や介入が必要であるとすれば、その仕方やタイミングについても、心の専門家である心理臨床家から専門的な助言をもらうことが肝要でしょう。
登校できない子やその親は現実に自分では処理できかねる問題や困難を抱えており、独りではどうしようもない状態に置かれているのですから、その援助にあたる教師は、相手のために役立つようできる限りの努力を尽くすべきことは当然のことであり、そこに責任をもって積極的かつ適切に会うことが必要です。
登校できない子が課題解決に向かっていくための条件を、教師は責任をもって醸成あるいは招来することが求められているのです。