「よい子」に潜む「よくないもの」

 「こころのキャッチボール」を進めていくと、親はだんだんと親としての自分のこれまでの関わり方の問題性に気づいてきます。このとき学校は、この問題性を単純に指摘しないほうがよいと思われます。親が「悪者」になり、自分の子育ての仕方を責められて、かえって親の不安定を増すこととなり、好ましい結果を生みません。関わり方の問題性に気づいた親は、そのことを教師が言語化しなくても、キャッチボールを繰り返すうちに徐々に変容していくものです。
 それでも、もし親が「よい子」に対して「ああしなさい」「こうしなさい」というような指示的な声かけばかりであったりするときは、「そばに一緒にいてあげるだけにしてください」「指示的な声かけよりも今、子どもに必要なのは、お母さんにゆったり関わってもらうことでは」というようにレクチャー的なアプローチも時には必要になってきます。親にレクチャー的にアプローチする場合、子どもへの関わり方について親が「分かる」ということと、その分かったことを親が「できる」ということは全く違うのだということを教師は肝に銘じておくことが必要です。例えば「指示しすぎてはいけない」と分かっていても、「指示しないでいられる」とは誰しも限らないわけです。「こうした方がいい」と分かっていても、「できない」ということは数限りなくあるはずです。人は自分の思うとおりに行動できるものではありません。
 親の思い通りに子どもは動かないこと、きっちりとしたくてもできないこともあること。溌剌とした、またドロドロとしたいろんな感情の中に子どもは生きていること。黙っているから、言わないから何も感じていないのではないということなど、「背のびしているよい子」に潜む「よくないもの」とでもいうような「子どもの生き生きとした感情」を自分の肌で感じ取る親の体験は、確実に親を変えていきます。子どもと本気でぶつかり合って初めて親になれるのに、ぶつかり合いのときの不愉快を避けるから、よい子、よい父母、よい家族を、それぞれが感情も主張も抑えこんで演じていくことになるのでしょう。これではいつまでたっても「親」になれないし、子どものこころも成長しないのです。
 これはレクチャーによってできることは稀であり、時間をかけて、体験によってのみ、その人の生き様を変えていくものであろうと思われます。そういう意味においても、できるだけ母親にも父親にも学校に足を運んでもらって、親もリラックスした雰囲気のなかで「まあ、そうだなあ、ぼちぼち、じゃあ、やってみよう」とでもいうような向き合い方ができるよう、学校が支援、援助できるといいと考えています。
 
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