イヤだという拒否

 ある子どもは、中2になって初めて親に「生徒会の役を引き受けるのはイヤだ」と語ったそうです。語ったというより語れたと言った方がいいのかもしれません。親や教師は、あれだけ素直で何にでも頑張る気のいい子どもが「イヤ」と言ったことに戸惑ったようでしたが、この子どもの言葉は実に大事な教訓を引き出してくれます。

 まず、この子どもの拒否は、親と教師の自分勝手さを教えてくれます。仕事に家事に忙しい親にとって、あるいは忙しい教師にとって、嫌がらずに何でも快くさっと引き受けてくれる当人に頼り過ぎていたのでしょう。「友達にイヤなことを頼まれたら、イヤと言える強い子になれ」と親や教師は口では子どもに言いながら、それを親や教師には言ってはいけないというメッセージをこれまでその子どもに与え続け、イヤなことを頼み続け、周囲のみんなが頼ってきたと言えるかもしれません。

 もちろん、そうしようと思ってそうしてきたのではないのでしょうが、これまで気づかなかったということは、結果的に同じことだと思われます。誰かと誰かを区別して、そんな使い分けができるほど器用なことがそう簡単にできるわけではありませんから、友達から何か頼まれてもイヤと言えなかったのでしょう。

 一方で「理想はこうだ」、でももう一方で「現実はこうだ」というような二重のメッセージの中で、子どもは本当に必要なときにも「イヤ」の一言が言えなくなってしまっていたのです。親や教師は「イヤだ」と子どもに拒否されると「この子は悪くなった」と思ってしまいます。こんな中でこの子どもはそれらを敏感に感じ取り、自分の本当の気持ちを出せなくなってしまっていたのでしょう。


 子どもの居場所、例えば家庭や相談室、保健室に、イヤなことはイヤだと伝えることができるリラックスした雰囲気を「よい子」と一緒につくり出すことがまず必要です。「よい子」は最初はぎこちないですが、そのうち上手に拒否できるようになってきます。
 
「先生の顔を見るのもイヤだ、二度と来ないでくれ」とか「教科書は見るのもイヤだ、友達からの電話にもでない」という学校に関するものへの拒絶は、その「よい子」にとっては必要な体験であると考えられます。

 そういうとき、親や教師は「悪くなった」などとは決して考えず、拒否に込められた精一杯の子どものメッセージをしっかりと受け止め、簡単に「わかった」としてしまわずに、周りの人たちがどうしようと一緒にとことんまで悩む、困ることが大事です。とても無責任な言い方かもしれませんが、程度の差はあっても父親と母親が、そして教師が力を合わせて一緒に悩む、困ることが必要です。
 
 このことが、必ずその子どもの成長を引き出します。イヤという拒否は周りの人たちとのこれまでの関係の修復を願うメッセージなのですから、周りの人たち、特に親や教師の成長が子どもの成長を助けることは言うまでもありません。


 これには法則やゴールなどありませんし、小手先のテクニックなど通用するはずがありませんから、極端に言えばそうして一生涯にわたって一緒に悩み困り続けることが必要だと言った方がかえって楽に構えられるかもしれません。側にいる大人が、子どものメッセージを正面から本気で受け止める努力が何ものにも勝ると思えます。
 
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