山城高等学校長 北澤 和夫
                                                                 
                                                          3月〜「巣立ち行く若人の門出」(要旨)

皆さん、おめでとうございます。入学以来、様々な場面で自分自身を奮い立たせ、課題を乗り越え、ひと回りも、ふた回りも、大きく、強くなって、この日を迎えることができました。よくがんばりました。そして、日ごと身の回りの世話をしてくれた家の人たち、悩みをきいてくれた友だち、アドバイスをくれた心強い先輩、そして大切なことを沢山教えてくれた先生方が皆さんを支えてくれました。そのことに思いを至らせ、感謝の気持ちを抱いてください。
皆さんには、二千数百時間という授業を通して得た蓄えがあり、HR活動や学校行事、部活動にも数え切れない学びがあったと思います。その積み重ねが、皆さんそれぞれを一層輝かせて行く糧となることは間違いありません。実に多くのことを勉強したわけですが、さらに難しい勉強が今後の社会に待ち受けています。勉強は社会の中でするもの、学校はその勉強をするための道具、方法を身につけるところだとも言えます。ですから皆さんが手にした「卒業証書」は「あなたは社会の中で勉強して行ける人ですよ」と、山城高校が認める「免許状」だと思ってください。
 世の中には「これが正解」と言えることよりも、正解が見えないことの方がはるかに多い。「これしかない」と思えることであっても、探求は限りなく続き、広くて深い。学問の世界のみならず、例えば人の気持ちを汲み取ったり、自分をわかってもらおうとすること、あるいは異なった考え方がぶつかった時、どう納得し合うかなどの、人間社会の営みは難しいのです。本当に大事なことは、経験しないとなかなか身につかない。失敗し、痛い目にも遭いながら、私たちは少しずつ知恵を深くして行くのです。
 ギリシア神話に有名なパンドーラーの箱の話があります。人間に言葉や文字、道具を教えてくれる神、プロメテウスが出て来ます。火を使うことまでも人間に教え、ゼウスの神によって処罰され遠ざけられますが、一つの美しい箱を家に残しておきます。その中には人間の社会に、はびこることになるであろう悪い事がすべて閉じこめられてありました。弟に「この箱だけは決して開けてはならぬ」と言い残していたにもかかわらず、女神パンドーラーの好奇心によって仕方なく箱は開けられてしまいます。すると、沢山の悪いこと、苦しいことが人間社会に広がってしまいます。でも、中に最後に残ったものがありました。それが「希望」だったという話ですね。
 この話からいくつかの解釈や教訓を得ることができますが、一つだけ述べますと、それは知恵についてです。人間の知恵というものが人間の社会を豊かにし、幸せをもたらすと同時に、苦しみや不幸をも、もたらしうるもの、いわば「両刃の剣」であるのだと示唆しています。で、不幸が高じて苦しい状況になったとしても希望はあるのだと伝えています。考えてみてください。希望とは何でしょう。人間が希望を抱くというのは「不幸や苦しみを乗り越えうる『知恵の力』を信じる」ということではないでしょうか。人間に知恵を授けた神が、その知恵によって生じる絶望的な状況を考えた上で「希望」を箱に入れておいたというのは、そういう意味だと私は考えています。
 誰しも明るい社会を願うわけですが、いつの時代においても不安と苦悩にさいなまれる現実があり、また先行きの不確かであるのが、人生であります。今の社会も例外でなく、前の世代から引きずる様々な『負の遺産』もあって、『生きづらい社会』の様相を呈しています。夢と志を抱いて確かな生き方を見い出すには、あまりにも不安が多すぎます。それでも人々は希望を抱いて、子どものために、家族のために、社会のために、人類のために、と、しんどい思いもしながら、前向きに生きています。困難な社会の状況を、みんなで『知恵の力』を合わせて切り拓こうとしているのです。
 やがて社会で独り立ちしようとする皆さんへ、私は最後の言葉を贈ります。「明日一日に向けての知恵を働かせよう」です。学問や研究であっても、また自分に任された役割や仕事であっても、まずは明日へ向かうことについて考え、心準備する。遠い将来を思い描くことも大切ですが、まずは一日、一日終われば、また一日と明日を大切にする思いを抱き続けてください。
 保護者の皆様に申し上げます。皆様が大切に育ててこられたお子様が今、本校の全教育課程を終えました。立派に成長されました。まことにおめでとうございます。顧みられて如何でしょうか。幼い日には、あれだけ甘えていたのに、高校生にもなると次第に親から離れようとします。そのことをわかりつつも、ふと寂しさ感じる。そんな心持ちもお有りだったのでは、と思います。人生における子育てということを考えますと、実は大人の方が子どもによって育てられているのだな、と感じることが多くございます。子どもの事で考え、悩む。心ときめくこともあり、また、悲しみにくれることも、お有りだったかと思います。今日の晴れの姿を御覧になり、さぞかし感慨無量のことと存じ申し上げます。
 この三年間、私たち教職員は子どもたちと実に長い時間を共にし、「すばらしいことを教えたい、大切なことを伝えたい」と願って、心をくだいてまいりました。しかし若い世代というものは常に時代や社会の変化の中で、新しい生き方をめざそうとするものですから、私たち旧い世代が「こうあるべきだよ」と教え諭す言葉も、子どもたちにとっては、自分たちを責めるかのように響くことがあっただろうなと、今、思います。大人になろうとする者の悩み、苦しみの一つだと言えるかも知れません。それでも「このことだけは失ってはいけない、身に付けないといけないよ」と言う、私たちの願いの一つ一つを、彼らは心の内にとどめてくれていて、必ずや、自分自身の確かな生き方を見い出すことにつなげてくれるはずです。どうか、子どもたちの可能性を信じ、今後も叱咤激励していただきたいと願います。
 保護者の皆様には、これまで本校の教育活動に対して御理解、御協力、御支援をいただきましたこと、あらためて厚く感謝申し上げます。また御来賓の方々には、本校や子どもたちのために、ほんとうに親身になっていろいろお世話くださいました。ありがとうございました。
 さて、卒業生の皆さん。お別れとなります。卒業してからも、どうかこの山城高校で過ごした自分の姿を思い起こしてください。本校に合格が決まり心をはずませた日のことを。毎日毎朝、遅刻するまいと言い聞かせた、その気持ちを。眠気に耐えて勉強したがんばりを。友達とのつきることのない語らいの時間を。暑い熱い夏の日も、冷たい風の中でも、息を弾ませて走り込んでいた日々を。試合が終わって、涙をとめども流した、ひたむきさを。懐かしくよみがえる、それら一つ一つの感慨が、明日へと踏み出す皆さんの背中を押してくれることでしょう。これが、まさしく母校です。お母さんのような学校ということです。今日をもって山城高校は皆さんの母校となります。
 皆さんが多くの人々から尊敬される人になってくれることを願い、幸多い人生を歩まれることを心から祈っています。
(H.22.3.1 式辞より)

                            2月

「卒業生保護者の皆様へ」
 いよいよ子どもたちが晴れの日を迎えます。保護者の皆様、お子様の卒業を心からお祝い申し上げます。子どもたちは心も体も一段と逞しくなりました。本校教職員の指導、多くの仲間との切磋琢磨を通して、そして何よりも御家庭でのあたたかなまなざしと叱咤と励ましが、子どもたちを大きくし支えたことと思います。皆様には、さぞかし感慨無量のものがあろうかと存じます。これまでの御労苦に対し敬意を表しますとともに本校に対する御協力、御支援に対し感謝申し上げます。
 入学の当時に比して、社会の状況が一変しました。経済不況、雇用情勢の悪化、不可解な事象や悪事の横行など、世相がよろしくありません。風潮も、マスメディアを始めとして、じっくり考えるのをよしとしないような、短絡的、浅薄な傾向になってきているかと感じます。今後を生きる子どもたちが、夢と志を抱いて確かな生き方を見いだすには、あまりにも不安で、戸惑う要素が多すぎます。
 この生きづらい時代を生き抜くには何が必要なのか、と二学期の終業式で問いかけました。自分自身を内側から支える強いものを持とうとすることが人生には大切なのだと。その精神性が、時には毅然と、あるいは潔くと、さまざまな生き様につながるのだという話です。
 「矜持(恃)」という語があります。この言葉は、つい「誇り、プライド」と置き換えてしまいますが、少し違います。他に対して誇示するというよりも、自分自身の心の内の在り方を表すのだと思います。「矜」は武器の「矛の柄」という意味。ですから自らを支える鋭いものを持つ、あるいは恃(たのみ)にする」というイメージで、私はとらえています。人生において追い込まれた状況の時に最も支えとなるのは「矜恃」であります。子どもたちにこのことを求めたい。社会へ踏み出す彼らの背中を「ぐいっ」と押してやらねばなりませんが、かの心に甘い考えが潜む時は、人生の先輩として「もっと心を強くしなさい」と叱ってやることが必要です。子どもたちの可能性を信じ、見守って行きたいものです。 来る三月一日の佳き日。皆様方の御臨席を待ち申し上げます。           (平成22.2)

                            1月

「始業式」〜新年に際して〜
まず、新年を、こうして、そろって迎える喜びを分かち合いたいと思います。みなさんそれぞれ、少し気分もあらためて新学期に臨んでいるかと思います。三学期に向けての心がまえについて話すべきなのかもしれませんが、年の初めですので、この一年を過ごす心の持ち方といったことについて今日は話をします。
 ロシアのチェーホフという作家の小説だったと思うのですが、その中に「これまでの人生が下書きで、これから生きていこうとする人生が清書だったらいいのになぁ」という意味の言葉が出てくるのです。今までの経験や反省に基づいて、これからの人生は、あたかも清書するように、円滑に美しく生きたいと願うわけです。でも、そう思うようには行きません。どうしても下書きみたいになってしまいます。で、また心あらためて、清書しよう、再出発しようとする、で、また下書きみたいになってと、そんなことばかりを繰り返してしまう。誰にもこういうことがあるのではないかと思います。でも、それでいいのだと私は思うのです。なぜかというと、そのつど、何かに気づき、発見し、聡明になっていくという具合に、自分が進化することこそが大切だと思えるからです。
 今日は、みなさんにある言葉をプレゼントします。昨年の秋の頃にW
館への渡り廊下の掲示板に、書道の色紙として上手くない字で掲げていましたから、もしかしたら目に止まった人もあるかもしれません。「賢者の生活は日々新たなり」と書いてました。「賢い人の生活は、毎日毎日が新しいのだ」という意味です。私のオリジナルでなく、今から700年ほど前に活躍したイタリアのダンテという人の言葉を基にしています。この人はイギリスで言えばシェークスピア、日本で言えば紫式部と肩を並べられる歴史上、偉大な文学者だと私は思っていますが、その人の言葉を少し変えて、私は大切にしています。ダンテは「賢者には毎日が新しい人生である」と言っています。深い意味については、正直、よくわかりませんが、私なりにとらえているわけです。
 みなさんの場合で言うと、毎日の学校での生活は、新しいことを学ぶことの連続なので、もうそれだけで「日々新しい」のですが、私が考えるのは、もう少し、踏み込んだ形、つまり新しいことを知ったというだけでなく、物事の仕組みとか、本質とか、少し見えにくいもの、隠されていることを見抜く、洞察する生活をすべきであるということです。そうすれば、毎日がずいぶんと違ってくる。目にするもの、聞くものが新しい色彩を帯びてくる。まさに、日々新たな生活となるのだということなのです。
 私たちが生きている今の時代・社会は、数十年前と比べてみても、何もかもがずいぶん見えにくくなってきているような気がします。製品一つとっても、高度な技術になったのか、どんな原理にもとづき、どんな仕組みで、どのように動いているのかよくわからない。作られていく過程も見えなくなってる。少し前までは、ものが作られるプロセスがよく見えていたのですが。製品に限らず、政治や社会、経済の動きとか仕組みにしても、細かく分担されていて、それぞれの関係も非常に複雑、理解しにくい感じがしますし、さらに情報が多すぎるゆえに、かえって、何が本筋なのか正しいのか判断しにくくさせていたり、マスメディア、携帯、パソコンのようなIT機器で、簡単に情報が手元に入ってくるから、つい「わかったつもり」「知っているつもり」になる。
 その結果、考えることをやめるということがあります。誰かが発信したしたものをそのまま本当のことだと受け取って、毎日を過ごしているようなところがあります。で、それにつけこんで、まことしやかな怪しい情報を流す者や、人をだましたりする者も多く出てくる。あるいは、代々受け継がれてきた人間の知恵の働かせ方というものを次第に忘れて行きつつあるとも思います。
 話が飛びますが、今から15年前、みなさんが生まれてまもない頃ですね、1月17日の夜明け方に「阪神・淡路大震災」という、とてつもない大きな地震が発生しました。京都でも怖いぐらい揺れ、交通網も途絶えました。その時のことを決して忘れはしませんが、神戸近辺、淡路島を中心として6,400人を越える尊い生命が失われたのです。多くの家屋が倒壊し、火災も広がりました。電気・水道・ガスも途絶え、阪神地方は大混乱をきたしました。自衛隊や消防はもちろん、多くのボランティアの人々も全国各地から、京都からも救助に駆けつけたということがありました。みんなで知恵を出し合い助け合ったのですが、一方で例えば水が不足していて、目の前にたくさん水が流れていても、それを濾過して、きれいにするという方法が忘れられていたという事実もありました。
 この携帯電話ですが「なぜマナーモードにしたら振動するのでしょう」。ふと疑問を抱いて調べると、実はごく小さなモーターが入ってることを知る。ではなぜそれが震えるのかと思い調べると、それが、ただのモーターでなく、ぶれて振動するように作ってある。あるいはこのボールペン。当然ペン先に、小さな小さな鉄の球が入って転げるのですけれども、こんな細かい所にいろいろ工夫が施されていることがわかってきます。さらに携帯の中の部品にしてもボールペンの球にしても、日本の誇る技術力で、世界の市場でもがんばってるんだとか、京都や大阪といった地元にある企業でも作ってるのだとか、いろいろ見えてくるのです。例を挙げれば尽きないのですが、世の中の出来事、仕組みについても同様です。
今年一年、学校で学ぶことについて、「なぜ」「どうなってるんだ」「それで」という具合に、習ったこと、知ったことを受けとるにとどまらず、一歩踏み込んで、疑問を投げかけ、その種明かしをしていくという意識を是非持って、勉強に向かうこと。そのことで、きっと、みなさんの生活は「毎日が新しく」なると思います。これが今日の話の主旨です。
 最後に、いつも、みなさんに「こうして欲しい」「こう願っています」と言うばかりですので、今回は私自身が新年に自分に言い聞かせたことの一つを、気恥ずかしいことですが、打ち明けます。
 それは「自分が仕事として関わること、大きなこと、小さなことに関わらず、一つ一つ心をこめてやろう」ということです。当然のことであり、手を抜いたり「いいかげんにしよう」などと思って仕事をしたことは決してないのですが、これが、なかなか思うようにはいかないのです。私はこの心がけを引き続き実行します。皆さんも、それぞれが抱く思いを行動で示せるよう努めてください。(平成22.1)

                           
12                  

「終業式」
暑いさなかでの山城祭の準備に始まり、日に日に寒さが増すこの歳末までの、長かった今学期でした。この間インフルエンザに罹った人が多く出ました。学校に来れず、しんどい思いもしたことと思います。学校の営みとしては大きな事件・事故もなく、勉強や部活動を続けることができましたが、これは必ずしも偶然というのではなく、さまざまな場面での先生方の指導や、みなさん一人一人の判断、的確で節度ある行動に因るのであって、いわばみんなの知恵が要所要所で働いたということでもあり、その点でよかったと感じています。
 さて季節が変わり、落葉樹はすっかり木の葉を落としてしまいました。ふだんは木の葉が茂っているから見えないけれども、幹と枝の姿がはっきりと姿を見せています。特に大きな木は幹も枝ぶりも堂々たるものです。だからこそ、木の葉が茂ると、あんなに立派な姿なのかと、あらためて知らしめられます。
 人も同じで、派手さはなくとも自分自身を支えるしっかりとした幹の部分、つまり、考え方、信念というものを持つことで、その人は、俗に言うオーラのようなものが出ているというか、ますます存在感が増して来るように思えます。そのようなしっかりとした自身の支柱を備えて行くことが人生には必要だと思います。そして高校生ともなれば、もう、そのことを意識し始めなければなりません。人の視線よりも、まず自分自身を内側から支える、強いものを持とうとすることが、行動においてもすばらしい姿を示すのだと思いますし、そこから、毅然とした生き方、潔い生き方など、さまざまな生き様が姿を現します。
 この厳しい時代を生き抜くには何が必要なのか。
 人生において、追い込まれた状況、ギリギリの局面におかれた時に、最も支えとなり頼りになるのは、やはり自分自身の精神性、心のあり方ではないでしょうか。自分を見つめ直した時、甘い考えが潜んでないか、もっと心を強うするにはどうすればいいのかなど、時折、私たちは思案する必要があります。
 では、そんな自分を作って行くには、どうしたらいいのでしょうか。
 一つの方法として、ものごとに対しての考え方を自分の基準にしたがって整理するというのがあります。例えば「自分はこれだけは大切にしたい、こわしたくないのだ」ということと、次に「そういうことは私は許さない、許せないのだ」というようなこと、さらに「さほどでもなく、どちらでもよい」こと、そして「まったく自分にとっては意味のないつまらない」こと、と言う具合に、一つ一つ判断して、はっきりさせていくということがあります。ここは、みなさんそれぞれ考えてみてください。
 最後に、作文の一部を紹介します。ある施設に体験学習に行った人の言葉です。
 「訪問する前は『中の人たちを不快にさせないように』との心配でいっぱいでしたが、行ってみて、私はこういうことがすきなんだな、とわかりました。そしたら、うれしくなって、みんな幸せになって欲しい、と心から思えました。これからも(他の人を)幸せにするために、自分をもっと幸せにしたいと思います」
 と述べられていて、これにはこんなコメントをつけてあります。「人に嫌われることを恐れないようにするには、まず自分について思い、自身への評価を大切にして、自分を好きになることだ」と。
 この時期は誰しも、わが身のことについて思い、今後のことを考えるものですから、今日は以上のような話をしてみました。
 新しい年にのぞみ、心もあらたにして、みなさんそれぞれが、しっかりとした夢や志を抱いてくれるようにと願っています。 (H21.12)


                                             11月

「授業の風景」〜向き合い、考え抜く
 すべての先生方の授業を観ようと6月にスタートし、今月に入って終えたところです。開始のチャイムから終了までのほんの50分間であっても、私自身が高校時代にあまり理解できず興味も持てなかったこともよくわかり、新鮮な心持ちになったというのが、素直な感想です。
 教室に先生が入ってくる。次の授業の準備をしてはいるものの、休み時間直後の子どもたちの気分や思考回路はまちまちです。ところが、チャイムが鳴って、先生が「ある仕掛け」をすると、子どもたちと先生を結ぶ回路のスイッチがカチッと入り、一つの世界に子どもたちは引き込まれていきます。
 授業とはどのようなものなのかと、あらためて考えてみました。各教科ごと、また一つの教科においても、さまざまな方法があるのですが、共通して授業で最も大切なこととは「向き合う力」をつけていくことではないかと気づきました。まず先生と子どもの双方がしっかりと人として向き合うということ、そして双方とも、学ぶ対象に真摯に向き合うということが肝要であるということです。この「向き合う力」を身につけて行くことの大切さは、人の話を聴いたり、諭されたり、あるいは書物を読むことの多い教育活動全般に言えることではないでしょうか。次いで、先生による「次の仕掛け」によって、子どもたちは考え始めます。順次、高度な内容を考え抜くように動いていきます。「考え抜く力」があるということ、どこまで激しく考えることができるか、その力がついたかどうかが、教育の成果であると言えます。
 「ある仕掛け」「次の仕掛け」と上述しましたが、一つは「その気にさせる」導入のプロセスを、いま一つは「謎を出し、考えさせ、種明かしをする」展開のプロセスを指すことは言うまでもありません。これらの「仕掛け」が良質であればあるほど、うまく授業も展開するはずで、先生方の腕の見せ所です。本校では今月、各教科の先生方が互いの授業を観る授業研究期間をもうけています。
授業は演者と観客とが強くつながる好い舞台芸術のようです。ただ、授業では先生が教壇でいつも話し、生徒が座席でいつも聴くのではなく、双方のやりとりがある。日ごとに、互いにわかり合う関係になっていく点が、異なります。(H.21.11)

                               10月
「時間割にない時間」
 文化祭も幕を閉じて平常の授業にもどると、学校の秋もしだいに深まって行きます。つるべ落としの夕闇の中に子どもたちが弾む声を響かせながら下校を急ぐ季節となりました。
このページの「5月」で、学校の時間では「毎日反復される日常的な学習と非日常的な活動を織り交ぜ」ていることと「時間を割る」ということについてふれましたが、学校が「時間を割らない」時間は、子どもたちそれぞれが自分で「時間を創っていく」力が必要となります。
「自分たちがしたいことをしっかりと表現すること。そのために与えられた時間をどのように使っていくのか」―― 先の「山城祭」(本校では文化祭をこう呼びます)に向けての準備期間から当日の発表までの間、そのようなまなざしでもって、子どもたちの様子を観ていたのです。ホームルームでの企画の段階は残念ながら見えないわけですが、演技の練習などを観るにつけ、時間の使い方や人の動き、試行錯誤と指示の反復、etc...そうして仕上がり具合も見事なものでした。
 さて、10年ほど前に土曜日が休日となり、授業時数の確保を理由にして、各校では非日常的な行事を削減するとともに、「夏休み」も短くなりました。その短くなった「夏休み」も現在は「時間で割られた」補習などが大半を占めています。また時間を割らない「放課」後にも7限を、学校によっては8限を割るようになりました。授業時数の確保は大切な要件ではありますが、一方で、それらの与えられた時間にゆだねるあまりに、子どもたちが、「自分自身の時間をどう創るか」という意識や力を失うのではないかという心配もあります。ちなみに「土曜日」と言えば、かつては「半ドンの文化」があったように思います。まる一日の休日とは異なる、午前は日常、午後は非日常といった感じで、学校を早く終えた後の時間を、子どもなりに、いろいろと工夫し、豊かな時間を生み出していた面もあったかと記憶しています。
 「何をしようか、さてどうしようか」と、少々時間をもて余し、考えあぐねることが、何かを、思いつき、生み出すということにもつながる。そのことが人間の文化を進展させてきたとも言えます。そういう時間を設け、仕掛けをつくることもまた、学校教育の大きな仕事ではないかと思っています。 (H.21.10.5)

                                9月  
「第二学期 始業式 」〜式辞
  おはようございます。まずは、こうして、大きな事故もなく、一堂に会することができたことを喜ばしく思います。それぞれの夏休み、学校から少し離れた生活を通じて、家庭のこと、勉強のこと、部活動のことで、人との関係、また、多くのことを体験したり、社会のニュースを見聞きしたことで、新しい気づきが多くあったかと思いますが、それらの経験をよく整理し、自分がまた一つ成長できるよう、つなげて欲しいと思います。
 今日は二つのことを話しますが、一つ目は人の心を思い知る、ということについてです。
 この夏休みは、雨模様の日が多く、しかも豪雨によって7月、8月と日本の各地で痛ましい被害がありました。また多くの水の事故もありました。また、例年夏休みには、かつて日本が戦争をしたこと、暑い夏の日、広島・長崎に原爆が実際に投下されたこと、戦争が終わり、日本が新たな決意を抱いて再出発したという、重く、確かな事実が語り伝えられます。(みなさんのおじいちゃん、おばあちゃんが小学校に行っているか、まだ行かないかという時代でしょうか)みなさんにとっては、自分たちが直接経験したことではないけれど、その日本の遠い日のことを知り、考える機会があったかと思います。
 人間が他の生き物と違ってすぐれていることの一つに、自分が直接経験しない事でもリアルに思いめぐらせることができるということがあります。「さぞかし」という言葉がそれをよく表しています。「さぞかし、つらかっただろうな」「さぞかし、心残りであっただろう、悔しかっただろう」と。あらゆる生き物のなかで他の人の痛みをそのように思いやることができるのは、おそらく人間だけでしよう。
 だから、例えば、「こわいよーと泣き叫んでいる子どもを助けることができず、目の前で、濁流に呑み込まれていきました」といったニュースを知ったときに、その場面、その時の子どもの気持ちを想像し、胸が痛くなる。スポーツを見ても選手の気持ちを思い浮かべ、熱い気持ちになったりするわけです。
 人の心というものは、長い歴史を経ても進歩しないところがあって、いつになっても憎しみや、ねたみを抱いたり、むごい仕打ちもしますが、このように人の心や立場を想像でき、思いやれるというのも人の美しい姿なので、このことが、かろうじて人の社会を成り立たせているように思えます。
 当然、みなさんには、痛みも悲しみも、お互いによくわかる、そのような学校生活を送ってくれることを信じています。
 二つ目の話。この2学期を過ごす姿勢について。
 歴史上の話をしますが、紀元前に小アジア、つまり今のトルコあたりにあった国の話なのですが、むずかしい結び方で紐が結んであって、知恵の輪のようになってて誰もほどけない「ゴルディウスの結び目」と言うのがありました。
 で、この結び目には「これを解いた者は全アジアの王になるだろう」というメッセージが伝えられていたものですから、さまざまな国の実力者や知恵者があれこれ挑戦したのだけれども、長い間どうしてもほどくことができなかったのです。結んだ人もすごい知恵者だったんですね。
 時代は進み今から約2300年前の頃、一人の男が現れる。アレキサンダーという人です。「昔から誰もほどくことができない結び目。解いたものはアジアの王となれる」という伝えを聞いて、おそらく彼も挑戦したのでしょうが、ダメだということで「えーぃ」と、巧みにこんがらがったその結び目を、剣を抜いて、まさに一刀両断、切ってしまった。そうして伝えられた予言のとおり全アジアを制覇し歴史に名を残したという話です。
 これをめぐっては、いろいろな意見があります。「これでは、知恵の輪を解いたことにならないではないか」とか、「古い考え方や常識にとらわれない勇気ある決断である。王としてふさわしい」とか、ですね。みなさんも考えて見てください。
 ただ、この話は勉強する態度について、あらためて考えさせてくれます。勉強する姿勢というのは、もつれた結び目をほどいて行くようなものではないかと。昔から伝えられたすごい知識、知恵というものを、やはり一つずつ、根気よく、自分の力で考えてほどいて行くのが勉強することだということ。切ってしまっては何も得られない。そもそも学ぶ道に近道、ショートカットというのは、ほとんどない。一つずつ丁寧に積み上げる、その手順を踏むことで、実はそのこと自体で力が付いている。しかも、いったん備えたその力は決して消え去ることはないわけです。
 2学期は長く、学校に来る時間も多いですが、でも長いゆえに、積み重ねもたくさんできます。どうか、根気よく、ねばり強い姿勢で過ごして欲しいと思います。                      (H21.8)

                                7月
「夏休みを迎えて」〜終業式でこんなことを話しました
 今日は、よい詩を見つけてきたので、まず一部を引用してみたいと思います。丸山薫という詩人の「未来へ」という作品で、父親と男の子が一つの絵を見ている場面です。その見ている絵は夜明け方、雪の広野をソリが走っているのですが、後ろから狼が追いかけてくる。それを旅人が銃でねらいすまして撃つのですが、それでも追いかけてくるという絵です。
詩の中に「悔い」という言葉が出てきます。これは「くやまれること、後悔すること、悔いが残ると言う時の悔い」のことです。
     
ごらん この絵の中を   橇がはやく走っているのを 狼の群が追いかけているのを        馭者は 必死でトナカイに鞭を当て 旅人はふり向いて 荷物のかげから休みなく 銃をねらっているのを
いま 銃口から紅く 火が 閃いたのを

息子が語った
一匹が仕止められて倒れたね
あぁ  また一匹躍りかかったが それも血に染まって もんどり打った

夜だね はてない曠野 が雪に埋もれている
だが 旅人は追いつかれないだろうか? 橇はどこまで走ってゆくのだろう?

父が語った
こうして 夜の明けるまで  昨日の悔いの 一つ一つを撃ち殺して 
時間のように 明日へ走るのさ
やがて 太陽が昇る路の行く手に 未来の街は かがやいて現れる
ごらん  丘の空が もう白みかかっている           (丸山 薫「未来へ」)

詩の中に「悔い(くやしい思いを抱く)」という言葉が出てきました。
生きていく上で、私たちは、どうしても、くやしい思い、反省することを抱えこんでしまいます。後悔とい うものは、まさに狼のごとく、人生にまとわりつくように、追っかけてくるように思えます。でも、それは、一所懸命に生きているからこそ、悔しい思いをすると思うので、それはまじめに前向きに生きている証拠で あります。
 この一学期をふりかえってどうだったでしょうか。三年生は、最後の部活動に、そして受験勉強に力をそそげましたか。二年生はようやく山城高校の生活において自由自在に動けるようになりましたか。一年生は高校の勉強や新しい仲間となじめるようになりましたか。みなさん、それぞれ、さまざまな場面で、がんばっていました。授業中のみなさんの様子、先生はよくわかっていますし、部活動の練習でも、早朝からも、夕方遅くにも、元気な声で励んでいたのも、よーく知っています。
 けれども、誰しもおそらく心のうちに何らかの反省することも抱えているかと思います。「もう少し勉強しておけばよかったなぁ」とか、部活動で、「あのミスが悔やまれる」とか、「もう一点とれたら勝てたのに」とか、あの一言で、友だちを傷つけてしまったとか、「謝ればよかったのに」とか、先生に対して「もう少し素直になれていたらなぁ」とか、お母さん、お父さんに「ひどいことを言ったなぁ」とか。
 その後悔する気持ちを、一つ一つ、やっつけるかのように、反省し、考え、次の機会に生かせるようにしていかなくてはいけません。たとい、うちひしがれるような、つらいことがあったとしても、気をとりなおして進む。そういう強さをもたないといけません。
 最後に、先ほどの詩の終わりの父が語った部分を、もう一度読んでみます。父親は、わが子どもに言い聞かせていますが、自分自身にも言い聞かせているようにも思えます。
      
父が語った
こうして 夜の明けるまで
昨日の悔いの 一つ一つを撃ち殺して 時間のように 明日へ走るのさ
やがて太陽が昇る路の行く手に 未来の街は かがやいて現れる
ごらん 丘の空が もう 白みかかっている 

みなさん。二学期が始まる時に、自信と希望に満ちた、いい顔で、会いましょう。  (H.21.7)

                                6月                   
「理解のプロセス」
 この6月、本校では互いに授業を見ましょうということで、授業公開期間を設けています。先生方は自分と同じ教科の授業だけでなく、教える同じクラスの他の教科の授業を見ることができますし、担任の先生にとってはわがHRの生徒たちのありようもわかります。私もできる限り授業の様子を、というより、理解のプロセスを見たく思い、教室の中へ入っています。
生徒たちは毎日、学校でさまざまな学習活動を、補習なども含め年間1000時間程度は積み重ねます。説明を聴く、メモをとる、ノートに記録する、図や資料にまとめる、振り返り記述する、整理してまとめる、要約する、説明する、解説する、発表する、話し合う、司会する、コメントする、図や資料を読む、分類する、比較する、考察する、推論する、関連づける、具体化する、抽象化する、概観する、検索する、情報を分析する、報告する、企画する、鑑賞する、感想文を書く、単語集を作る、実験をする、観察をする、身体を操る、発音する、歌う、描く、作る、 書を書く....etc.
物事を理解する過程とはどういうものでしょうか。まず「知って」それから「考えて」そうして「わかるようになり」、それを反復して、やがて物事の本質を得る。つまり「さとる」に至るということになると思います。教える側で言えば「教材を読ませ」「内容をきちんと教え」「課題を与え、深め」「反復徹底して」次いで「応用が効くようにする」ということになります。この手順はきわめて明快でありますが、高い技術を要します。しかし先生方は自らのいろいろな手法によって、うまく子どもたちを「高み」へと導いています。子どもたちの側から言えば「さとる」。先生の側から言えば「さとす」ということです。「教諭」(おしえ、さとす)という職名そのものに高い専門性を有することが示されています。(H21.6)

                                                 5月

「みどりの季節に」〜学校の時間

新学期のあわただしさもようやく落ち着いて、子どもたちも先生方も、連休で心も体も整えたようです。これから学校の時間は、定期テストという次の節目に向かいます。
 毎日、子どもたちの声を聞くにつけ、姿を見るたびに感じるのですが、もうそこにいるだけで、イキイキとした生命感にあふれているということ。それは「若さ」の特権でもあります。
 古代の遺跡から「最近の若者は言葉づかいがなっていない」という文書が発見されたというエピーソードはよくとりあげられますが、いつの時代でも「旧世代」にとっては「新しい世代」は眉をひそめる対象となるようです。子どものイキイキさが度を超して目に余ると「最近の若者は...」というグチにつながっていきます。けれども、逆に生気の感じられない子どもの姿が多くなっきているとすれば、社会としては、より深刻なことではないでしょうか。子どもたちがイキイキと楽しむ姿を見せていることは健全なことです。とはいえ、同時に人生には規律が必要であり、それを守ることは重要なことなのです。学校の時間においては、この二つの働きかけがあるといえます。
 「時間割」―「時間を割る」という言葉には学校の営みが象徴されているように思えます。現代の社会では時間を管理するタイムスケジュールはどの集団にも見受けられるようになったとはいえ、明治近代以来、学校ほど細分化された時間の中で多くのメニューを展開する場所はないだろうと思います。これは教育するにおいて、多面的に子どもたちの内面に働きかけることを意味すると同時に、規律、けじめをつける仕組みであることも意味しています。毎日反復される日常的な学習と学校行事やクラブ活動といった非日常的な活動を織り交ぜ、「時間を割る」ことで、さまざまな先生が、体力、知力、心の面と、多面的に子どもたちの内面にはたらきかけて行くのです。
 多くの先生たちが、子どもたちと多く関わる場面で「叱る」ことも「ほめる」こともきっちりやる。そのことを「子どもたちそれぞれが、自分には多くのまなざしが注がれているんだと感じる、そういう学校にしましょう」という言葉に置き換えて、過日の職員会議で話したところです。(H21.5.)
 






                                4月


 
「新学期のことば」〜 始業式でこんなことを話しました

「なんのために私たちは勉強するのか」
新年度が始まりました。新しい教科書や文房具、持ち物を買いそろえて、新しい気持ちになる。新しく習う科目、出会う仲間、そして先生、に期待する、そういった、なにかしら、ときめく気持ちが、みなさんの心の中にあるのではないでしょうか。
生きていて、ある時ふと、自分の見ている風景が、昨日までとは、まるで違った風に見える、ということがあります。みなさんも、そういう経験ありませんか。例えば人に対してもそうですね。身近にいる人で、さほど気にならなかった人が、なにか今までとは違って見えたり、素敵な人に感じられるようになったりします。
いったいどういうことなのでしょう。同じものを見ていても、これまでとは異なったふうに見えてくる。その理由は、私たちの側のものの見方、感じ方が変わってきたということなのですね。内面、意識が変化しているということなのです。これは大きな気づきであり、喜ぶべきことです。
ここに、「なんのために私たちは勉強するのか」ということの答えが潜んでいます。勉強するにあたっては、二つのことが同時に行われていなくてはなりません。一つは新しいことをどんどん知って、私たちの世界を外へ外へとひろげていくということ。もう一つは、自分自身の心の中へどんどん入って行く、つまり考える、思うという働きです。言い換えると、「勉強する」というのは、一種の対話なのです。長きにわたって知識や文化を積み重ねてきた多くの人々と、また、それらをわかりやすく教えてくれる先生と、向き合い対話する。あわせて、それらを考え思索するというのは、心の中にいる自分自身と向き合い対話をするということです。みなさん、そういう意識をもって、この一学期を過ごし、そうしてさまざまな場面で、今までとは違う見方をしている自分自身を感じ取ってください。

「生きる姿勢」について
人生は思うどおりにうまく行かないということが多いです。もちろん順調に行くことはいいことだけれど、つまずいたり、失敗したり、悩むことも多くある。恥ずかしい思いや悔しい思いもする。とりわけ高校時代はそういうものです。でも、挫折や失敗、後悔することは、ちっとも恥ずかしいことでも、悪いことでもないのです。そういう自分を素直に見つめずに目をそらし、ごまかそうとするのが一番いけません。つらい思いをした時にも自分と向き合い、そこから力強く立ち直って這い上がって行く姿こそ、人として価値があり、素敵なことではないかと思います。
「生きる」ということに関して、古代ギリシアの哲学者であるソクラテスの言葉があります。「人生で一番大事なのは、ただ生きることが問題じゃなくて、『よりよく生きること』が問題なのだ。」というのです。この言葉の解釈はいろいろあって難しいのですけれども、私は、ここはシンプルに「自分にできると信じて、より高いところを求め続けて欲しい」というメッセージに変えて、みなさんに贈ります。特に卒業年度を迎えた3年生にはこの言葉の意味をかみしめて欲しい。より高い目標に挑戦する心意気を示して欲しい。「自分はこれくらいできるのだぞ」と自分に対して厳しい姿勢で臨み、来年の春には「私はやったぞ」という自信をつかむ。そのことが今後のみなさんの支えにきっとなる。自分の力で獲得した自信というものを、どこかで得ておくことが、人生においては必要なのです。
学校生活について
私たちは必ずなんらかの集団、社会の中で生きて行かなければなりません。学校はその一つです。みんながうまくやって行けるための、あるいは人がちゃんと育つための知恵として「きまり」や「ルール」がある。ただ、「ルール」や「きまり」があるから守らないといけない、と思うのではなく、自然と行動できるように、身につけるようにすること。それが本校が伝統としている校風「自主・自律」ということです。
また学校というところは、仲間、友だち、先生と毎日同じ人と顔を合わせて生活をする場所ですが、みんなが同じような考え方やタイプだったら、まったく魅力はありませんし、何も生まれてきません。みなさんも感じているように、仲間や友だち、先生にもさまざまな人がいて、個性が渦巻いている。もちろん、それぞれ一人一人には好き嫌いもあり、考え方、思いの違いといったものはあるでしょう。でも、それを越えて、互いに認め合い、尊敬し合い、切磋琢磨し、発奮して、学び合うことで、豊かになって行けているのです。どうか、みなさんには、心の広い堂々とした人物に育って欲しい。 (H.21.4.8)

 

 

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