論文



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「地域社会の歴史と文化」に関する三つの課題

京都府立洛東高等学校 地理歴史科教諭 島田雄介


はじめに

  新学習指導要領(以下「新要領」)の日本史Bに置かれている「歴史の考察」は、「歴史と資料」「歴史の追究」「地域社会の歴史と文化」の小項目で構成されている。本稿では勤務校の状況を踏まえつつ、「地域社会の歴史と文化」の実践にむけての構想について私見を提示していきたい。

  京都府立洛東高等学校は、京都市山科区に位置し、京都市東通学圏の普通科高校として主に山科区在住の生徒が通学している。二〇〇四(平成十六)年四月より、普通科総合選択制として、生徒の興味・関心に応じた三コースを設定し、従来よりも多くの選択科目を履修できる方向での変革が行われる。設置予定の特色ある科目のうち、「歴史フィールドワーク」という学校設定科目に関しての試行的な取り組みを、二〇〇二(平成十五)年度から日本史Bの授業ですすめてきた。
  試行は、二年生選択者十七名の講座で実施した。学期に一回の校外学習を年間指導計画に位置付け、一学期には「近江大津宮」をテーマとして、滋賀県大津市錦織に所在する大津宮跡と大津市歴史博物館の見学、二学期は戦国時代末期の内容と関連させて方広寺(国家安康の鐘)・耳塚と京都国立博物館の見学、三学期には京都全般の歴史理解を深める目的で京都府京都文化博物館の見学を行なった。それぞれに事前学習のプリントを作成し講義ののち、現地でレポート(プリント)を書かせ、回収・点検した。一・二学期は授業の内容と同時進行であったため、例えば朝鮮出兵の様相が生々しく伝えられる耳塚に強い印象を受けた、といった具体的な反応が多かったのに対し、三学期の京都文化博物館では授業との関連付けが弱かったせいか、漠然とした印象しか持っていないことが、事後に提出させたレポート(作文)の結果から明らかとなった。(これは本論(1)・(2)の課題とも関連することである。)
  さて、この取り組みのかたわら「歴史フィールドワーク」実践上の課題を整理する作業を行なった。この科目は、新要領の「主題を設定して追究する学習」の延長線上に位置付けられること、またフィールドワークの対象として「学校所在地を中心とする日常の生活圏」たる山科地域を想定していること、などの性格を有しており、ここでの課題は「歴史の考察」中の「地域社会の歴史と文化」を進めていくうえでの共通の留意事項になると思われる。本論として、以下の三点を挙げる。

(1)「地域史」と「教科書史」をどのようにしてつなぐか。

  「教科書史」とは、「高校用教科書に記述された歴史」という定義のもとでの造語である。その一般性・標準性ゆえに、歴史学研究者は「教科書的理解」という語句を否定的ニュアンスで使用することがあるが、学習指導要領に規定された歴史認識・歴史理解、また現状での通説が高校生に理解されうる文章で記されたものとして、「教科書史」はやはり重要であろう。「地域社会の歴史と文化」で取り上げる内容が「教科書史」と極端に乖離してしまうことは避けるべきであると考えるなぜなら、新要領の「3内容の取り扱い」中に「細かな事象や高度な事項・事柄には深入りしないこと」が明記されており、地域史にありがちな微に入り細をうがつような内容はこれに抵触するからである。また、これは私見であるが、現実問題として高校生の発達段階においてはどの教科においても極端な偏重的知識は意味を持たない、言い換えれば幅広い知識を総合的に身に付けさせることが最重要だと思うからである。
  これは「地域史」の詳細を教材化するうえでの大きな制約となる。そこで提唱したいのが、「地域史」から「教科書史」への「架け橋」となるような教材を通して生徒の知識・理解を進め、生徒に追究・考察させる手法である。
  本校の校区である京都市山科区西野山中臣町を中心に、旧石器時代から平安時代までの複合遺跡である中臣遺跡がある。一九六九(昭和四十四)年に、本校在学中の一生徒によって発見された土器片からその所在が知られ、以後今日まで七十数次にわたる発掘調査が継続されている。「ナカトミ」なる地名をどう理解するか、『帝王編年記』『興福寺伽藍記』などにある中臣鎌足と山科との密接な関係が伺われる記述をどう解釈するか、学問的に検討を要する部分が多く断定は危険だが、この遺跡は古代豪族中臣氏と何らかの関係があることは首肯しうるものと思われる。その中臣鎌足を協力者として強大な王権を誇った中大兄皇子=天智天皇の陵墓は、これは周知のことであるが、同じく京都市山科区御陵上御廟野町に所在する。この「ミササギ」「ゴビョウノ」という地名が天智天皇陵に因むことは言うまでもない。つまり、「律令に基づく古代国家の成立と推移および文化の形成」(新要領「2内容・(2)原始・古代の社会文化と東アジア」の文言)に重要な役割を果たしたとされる二人が山科地域に残した事跡によって、いわゆる「大化の改新」から天智朝、大津遷都、そして壬申の乱という「教科書史」における一連の流れは、「地域社会の歴史」として再構成しうるのである。(近江大津宮の位置決定について、山科から近江への古道との関係が指摘されている。この宮は、琵琶湖沿岸における山科との最短距離の地点に設定されていた。)
  このように「地域社会の歴史と文化」を担当する教員は、それぞれの地域においてこのような「接点」を発見し、またそれが「教科書史」のどの部分と関連し、どのように位置付けられるのか、検討しつづけなければならない。これまで以上に教員の学問的蓄積の質と量が問われることと思われる。
  余談だが中臣氏はのちに藤原氏として古代日本の支配者となる。これにひっかけて、わたしは生徒に対して「中臣氏に続け。山科から出て天下を取れ。」とハッパをかけることがある。

(2)生徒の知的好奇心をどのようにして引き出すか。

  校区の山科区大宅鳥居脇町などに所在する大宅廃寺遺跡は、中臣鎌足の邸宅跡に建立された山階寺であるとも、在地豪族宮道氏の手による大宅寺であるとも考えられる寺院遺跡である。一九五八(昭和三十三)年に第一次発掘調査が実施され、おそらくこの際に出土したと考えられる瓦が本校に寄贈されて現存している。「雷文縁八葉複弁軒丸瓦」とよばれる白鳳期の特徴的な瓦である。さて、これを隣の机において仕事をしていたところ、別件で、ある生徒がやってきた。用件は済んだのだが、この瓦に目をやり、何かと訊く。ありのままに説明し、「博物館の陳列棚にあってもおかしくないで。」と付け加えると、目を輝かしてカメラつき携帯を取り出し、熱心に撮影しはじめた。
  社会科教室の清掃監督の時、木箱に納められている大正時代測量の土地利用図を曝涼かたがた眺めていると、当番の生徒が集まってくる。「君の家はどの辺なん?」の一言から清掃そっちのけで「うわ、ここ畑や。」「あの国道が載ってへんやん。」「まだ出来てへんのとちゃう。」などと、飽きずに語り合っている。
 「自ら学び、自ら考える」力が大幅に低下しているという現状分析は正しいと思うし、それに対する手当てが緊急の必要であることも認められる。今次の学習指導要領改訂のねらいもここにあることは事実であり、それを否定するわけではないが、これらの事例(もちろんすべての生徒がこのような反応をするわけではないことは強調しておかねばならない)を考えると、生徒たちの学びに対する姿勢や知識に対する欲求は、じつは高いのではないかという思いを強くする。重要なことはこの潜在的な知的好奇心をいかに引き出すべきか、その方法や手段を、教員が工夫し試行錯誤をかさねて編み出していくことではないか。少なくとも、ただ機械的・網羅的に暗記をさせる、進学を意識した受験テクニックを叩き込む、あるいは十年一日のごとく同じノートを筆写させる、などをしていたのではせっかくの芽を摘み取ることになってしまうのは言うまでもないであろう。
  キーワードは「等身大」と「本物」であると思う。身の丈からはずれていることを自分の問題として捉えることができないのは生徒も大人も同じで、上記はいずれも生徒の身近にさりげなく置かれた実物の資料(史料)のインパクトによって生じた成功例である。
瓦の場合、同じ物が難解な説明文とともに仰仰しく博物館などの陳列台に展示されていたら、この生徒は(あるいは教師でも)何の興味も関心も抱かなかったかもしれない。後者の例では、空間的変化と時間的経緯の両面から生徒の日常生活に切り込む要素をもつ古地図の、教材的価値の高さを再認識することとなった。
  地図といえば、本校は「山科本願寺古図」(いわゆる洛東高校本)を所蔵している。山科本願寺研究の基本史料の一つであるが、学問的価値こそ高いものの、ここ数年は本校の教科活動とはまったく無縁のものであった。これを活用した授業を組み立てるべく、今後さらに研鑽を積む必要を感じている。

(3)地域との関係はどのようにあるべきか

  最近の学校教育に関わる諸問題について、わたしは発想の抜本的転換が必要ではないかと考えている。具体的には、学校(教師)がメディアとして生徒に情報を発信しているとの前提で、社会の中におけるこれらの情報価値が変質(劣化)しているという事実認識からの分析が一度なされるべきではないか、という見解をもっている。さらに言えば、そういった諸情報は、学校所在地を中心とする地域に対しても発信されるべきであると考える。さまざまな教育活動・教科活動で得られた知見や技術を、地域全体に発信し還元するという視点を、これまでの学校は持たなかった。近隣の諸校を見ても、せいぜい保護者・PTA向けの趣味的な公開講座が実施されている程度である。
  「地域社会の歴史と文化」を標榜する以上その成果を地域に対してきちんとした形で示すべきである。具体的には、校舎施設を利用した博物館・展示室的空間の設置、地域に広く参加をよびかける学術講座の実施、研究紀要の刊行、地域の歴史研究者やグループとの連携と支援、などが挙げられる。無論、これらの準備、企画、実施などを授業のなかで生徒に取り組ませることとする。
  この取り組みの実現には、多忙化する高校で教員に時間を割く余裕があるかどうか、生徒にそこまでの力量を期待できるのか(どの程度の完成度を要求するのか)、予算・設備の面はどうなのか、地域の反応と受け入れ態勢はどうなるのか、など困難が山積であろう。現実離れした外見だけの空論だという批判を承知の上で述べるが、少子化時代を迎えて「特色ある学校づくり」が最重要課題となってきた昨今、学校の生き残りをはかるための選択肢の一つとしての意味はあるのではないだろうか。繰り返しになるが、「地域史」は地域に返してこそ成り立つ学問分野であると考える。
 
おわりに

  上にあげた三つの課題を踏まえ、「歴史フィールドワーク」や「地域社会の歴史と文化」の効果的な実践をすすめていくためには、本論中でもふれたようにまず担当教員の学問的資質向上ということが要求されよう。しかしそれだけでは不十分である。@他機関(大学や博物館などの研究機関)との密接な連携・協力関係が不可欠であること、A教員の研究体制を保障する必要があること、B(公立校固有の問題であるが)人事異動による継続性の問題、などの教員個人の能力や資質を超える問題については、高校が体制を整備し、かつ主体として行動していくことが唯一の解決方法であることを指摘しておく。また、地域とどのようにかかわるべきか、という本論の(3)に関わる部分もまた、高校としての明確なスタンスを打ち出しておく必要がある。いずれにせよ、こういった取り組みはともすれば担当教員の趣味的・嗜好的・独善的なものに陥る危険性も高く、一定水準の内容をどの教員が担当しても実践できるような体制を確保することこそが、組織としての高校に求められているのである。

この論文は『歴史と地理』(山川出版社)第575号、2004年6月に掲載されたものである。




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