職業教育
 古河は盲唖院開業に際して当面の普通学科の充実とともに、職業教育の開設を考えていました。父母や連日訪れる参観者の質問もその点に集中していたそうです。
古河は明治11年、京都市内200人におよぶ盲、聾唖者の生活実態調査を実施しました。その結果、盲人も聾唖者も約20%は収入がなく、約60%が月収4円未満でした。(米代一人月1円20銭)
 明治12年に盲唖工学場の開設が認められ、職業教育が始まりました。


20「紙撚(こより)細工」


 工学場では、盲生の科目として「紙撚細工」が採用されました。従来は窮民授産所に払い下げられていた、府庁各課で反故になった和紙を材料としました。

21 「琵琶」


 明治14年の新設科目として音曲(おんぎょく)科が設置されました。教師として旧検校(けんぎょう)の岡予一郎を迎えました。その他、京都伝統の生田流(いくたりゅう)の一流指導者が毎日の授業にあたりました。

22「風琴(オルガン)」


 明治16年、文部省から本校に下付されたものです。古河は、開業早々から昼休みに在来の弦歌によって歌唱指導を行っていました。文部省は伊沢修二をアメリカに留学させ西洋音楽の普及伝習にあたらせましたが、その伊沢がアメリカから持ち帰った日本最古のオルガンといわれています。

23「按摩(あんま)器各種」


 明治14年には、紙撚細工、音曲に按摩が加えられ、西洋医学の導入で禁じられていた鍼(はり)も徐々に教えられるようになっていきました。明治17年の盲唖院規則では、専修科(職業教育)に鍼按(しんあん)術のコースが設けられたと記されています。

もくじに戻る