盲唖院財政の危機
 明治18年には、開業時48名だった生徒は147名に、教職員は数名から20人以上へと目覚しく発展しました。しかし、折からの松方デフレの影響で、明治23年には院の財政は底をつき、教職員の半数が整理され、43名の生徒が退学を余儀なくされました。古河は私財を投じて再興を図りましたが失敗し、明治22年、院長を辞職することになりました。
 盲唖院は1890(明治23)年、京都市に移管され「京都市盲唖院」となりました。あわせて、院の財政は、文部省からの補助が打ち切られ、人件費をふくむ全てを乏しい基本金の利子に頼らねばならない状況でした。この盲唖院廃院の危機を脱して再興にあたったのは2代院長・鳥居嘉三郎(とりい かさぶろう)でした。


28「受恵函」(じゅけいばこ)



 明治26年、府市の政財界有力者10人の学校商議員のほか中井知事らが発起人となって京都盲唖院慈善会が設立されました。5年間に25円を拠出する特別会員156名や、同10円を拠出する普通会員890名を得て、恒常的な後援会組織となりました。明治28年、平安奠都千百年記念の第4回内国勧業博覧会が開催された岡崎公園と円山公園に市民向けの「受恵函」がもうけられました。


 世ノ慈善君子若シ此憫ムヘキ貧窶盲唖生ノ学資ヲ補助セラレントスル志アリテ金員ノ多少ニ拘ラズ此函ヘ恵投アルトキハ本院謹テ之ヲ受領ス
 Ladiese and gentlemen will please to put into this box whatever sum of money you may choose, in order to help the poor and pitiable mute and blind pupils in this asylum.


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