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京丹後市立五箇小学校

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更新日:0000年00月00日

豊かな歴史と自然の五箇地域

・ 「比治の里」の天女のおはなし

 丹後の国の比治の里に、和奈佐(わなさ)という老人夫婦が住んでいた。この比治山の頂に美しい池があって、真奈井(まない)と呼ばれていた。この美しい池に八人の天女が舞い降りて、水浴びをしていた。その時ちょうど行き合わせた老人夫婦が、ひとりの天女の衣をそっとかくしてしまった。衣のない天女は、一人取り残された。老人の「わしの子になってくれんか。」と言われ「お言葉どおりにしますから、衣を返して下さい。」と言い、老人は、衣を返し、天女を家に連れ帰って、一緒に暮らすことになった。10年あまりの年月がたち、天女は、酒を造るのがうまくて、お金持ちになった。でもその後、老人は、「この家を出て行ってくれ。」と言い、天女は、泣く泣く、家を出て、弥栄町の奈具の村に辿り着いた。そこの奈具神社で祭られている。豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)と言われている。

・ さんねもと天女

丹後の国の比治の里に、さんねもという若い狩人がいた。この比治山の頂に美しい池があって、八人の天女が舞い降りて、水浴びをしていた。その時よい匂いと音楽に誘われたさんねもは、ひとりの天女の衣をそっととってかえってしまった。天女は泣く泣くさんねもを訪ねて行き、そのままさんねものお嫁さんになった。機織りや酒造りが上手で、豊かになった。娘も三人生まれた。でも、天女は天に帰りたくなって、羽衣を見つけて「七日 七日に会いましょう。」と言って天に帰った。アマノジャクが出てきて「天女は七月七日に会いましょう。」と言ったとさんねもに伝えた。さんねもは悲しんで、天女からもらった夕顔を育てた。夕顔は、伸びて天まで届いた。天女は、「天の川の橋をかけたら暮らせる。でも橋をかけ終わるまで私のことを思い出したらダメ。」と言った。一生懸命橋をつくったけれど、最後一緒に暮らせると思い出してしまい、流されてしまった。地上の戻ったさんねもは、天女が恋しくて、三人の娘と天を眺めていた。七月七日の夜は、天女が、天の川にきらめく星になって合いにやってくる。

・ 平家のお椀が流れ出た「駒返し」

 鱒留の大路大成には平家落人伝説が残っている。山奥の清水ガ原に平家が住んでいた。清水ガ原に行く途中、両側から岩石が突き出て、馬では通れない「駒返し」という場所がある。源氏は駒返しで引き返そうとしたが、岩に堰き止められていた渓流から、ひとつのお椀が流れてきた。源氏は、馬から降りて攻撃した。平和に暮らしていた平氏には、不運だった。

・ 清水戸(せいすいど)

 初めて稲作をした豊受大神が、籾種を浸したと伝えられている。小さな井戸であっても、かれることがない。

・ 月の輪田(つきのわでん)

 清水戸で浸した籾種を、三日月形の田に蒔いた。その田を月の輪田と言う。農業が始まった土地を示す史跡である。神聖な田として受け継がれている。

・ 清助溝(せいすけみぞ)

 江戸時代に苗代に上田清助と言う人がいた。農業を盛んにするために、私財をなげうって、水路・側溝の工事をした。命をかけての大工事を行った。15歳~60歳の者が、総出で溝掘り工事に当たり完成させた。完成した時には、苦労をねぎらって、村人から清助溝と名前を送られた。1820年頃灌漑用水の不便なことを悲しんで用水路を造ることを二箇村の人たちに相談したが、「土地が高いから水は来ないだろう。」と言って、賛成する人がいなかった。一人で測量した。夜になると清助の妻が、提灯を立てて測量を手伝い、永い間苦労して、実際に水の流れることをはっきりさせ、遂に完成させた。できなかったら「私に首を差し上げましょう。」と言ったので、「首かけみぞ」とも言われている。

・ 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

 

崇神天皇の即位39年、豊受大神が、吉佐の宮におられる天照大神の食事を用意するために、大和の国からひじの里の真名井原に人間の姿になって出てこられた。16年後天照大神が大和に帰られた後も、神の姿に帰らずここにとどまった。丹波道主命は、八乙女に豊受大神を祭らせた。その後伊勢の国に豊受大神を迎えたが、分霊を比沼麻奈為神社に残した。

祭神は豊受大神である。元伊勢外宮を伝承している。伊勢の外宮に祭られている豊受大神は、もともとここから移られたと伝えられている。格式が高いとされる。
笹ばやし・旧太刀 比沼奈為神社の秋祭りには、郷土芸能の笹ばやしと旧太刀が奉納される。

 

 

・ 船岡史跡

 船岡とは「府の岡」からきていると言われている。政治を行う中心であったと言われている。大和朝廷から派遣された四道将軍のひとり、丹波道主命が、居館を構えたところ言われている。その妃の摩須郎女(ますのいらつめ)や女(むすめ)たちとの住まいの地と言われている。菅原道真を祭る天満宮もあり、船岡神社と一緒に祭られている。

近くには、東郷平八郎の書で彫られた「忠魂碑」がある。

・ 慶徳院

 円山応挙の高弟である長澤蘆雪の子、蘆州による襖絵があることで有名である。元文四年(1739)再建といわれる本堂には、江戸時代の画家長澤蘆州作の方丈壁画がある。これは四十四面にもなるもので、円山四条派の中にありながらその枠にとらわれない独特の画風は、円山応挙の孫弟子であった蘆州の代表作とも呼べるものである。画題は、「虎図」八面「花鳥」八面「百老図」八面「山水図」六面「竹林高士図」六面「鶴図」四面、天袋絵四面の計44面である。慶徳院は臨済宗天龍寺派の末院。釈迦如来像(平安時代後期作)を本尊とする。

 

・ 全徳寺

鱒留(ますどめ)の全徳寺には、木造阿弥陀仏如来坐像(平安時代)がある。平安時代後期における和様に則る作例で、頭躰各部の均衡がよく、目鼻立ちは端正で、衣には浅い襞(ひだ)を整え、穏やかなまとまりのある像である。製作は平安時代末期か鎌倉時代に入るのではないかと推測される。像の表面は布貼(ぬのばり)、肉身漆箔(しっぱく)、衣部古色仕上げとなるが、全て後補(こうほ)である。京丹後市指定文化財となっている。

  

・ 磯砂山(いさなごさん)

標高661mで、峰山第一の高い峰。標高400mあまりの山並みがつづく丹後にあって、ひときわ抜き出た山の姿は、古代丹後において山の神として崇められていたと言われている。古事記に言う伊去奈子嶽(いさなごのたけ)で、豊受大神がお住みになった神山であると言われている。「いさなご」の名は、海から眺めた山の形が「勇魚(いさな)=クジラ」に似ているからともいわれている。

・ 乙女神社

峰山町には、羽衣説話が二つ残されている。 ひとつは「丹後風土記」に記され、文字として残された日本最古の羽衣伝説である。謡曲「羽衣」はこの丹後のお話をもとにしてつくられた。
もうひとつは、地域の人々が大切に語り継いできた、羽衣天女のお話である。これは、牽牛と織姫のお話、つまり七夕祭とも結びついて、天空を舞うという夢多い、ロマンあふれる物語となっている。この物語に登場する天女は羽衣を隠した狩人と結ばれ、3人の娘を生むが、再び羽衣を手にして天上へと帰っていく。その娘の一人を祭るのが乙女神社で天女を慕う地元の人達に親しまれている。

 

・久次岳(ひさつぎだけ)

標高541・4mで、比沼麻奈為神社の裏にそびえる。山頂近くに九つの巨石があることから九石ケ岳(くいしがだけ)とも言われる神山である。

・ 女池(めいけ)

いさなご山の中腹にある小さな池で、天女が、水浴びをしていたという真井(まない=清らかな水をたたえた泉)と言われている。ずいぶん昔の火口跡ではないかと言われている。池の水をかき混ぜると、必ず雨が降ると言われている。 

・ 鱒留川(まずどめがわ)

鱒留川は、大成(おおなる)、大路(おおろ)地区に源を発し、茂地(もち)、大萱、久次、新治の支流を合わせて、鱒留・五箇・二箇・新治・菅・荒山に耕地を流れて竹野川にそそいでいる。

・ 古墳

・金谷1号墳

鱒留川上流地域における弥生時代後期後葉に築かれた台状墓である。墳頂に複数の埋蔵施設を持ち、丹後半島の弥生時代墳墓で多く採用されている組合式箱木棺が採用されたことを初めて確認された。

・苗代2号墳

鱒留川左岸丘陵に築かれた古墳時代前期の古墳群である。2号墳は、地山整形で、多数の埋葬施設を持つ。

・下山横穴群

鱒留川左岸の丘陵に分布する11基からなる横穴群である。7世紀中葉を中葉に築造されたものである。

・名地谷1号窯跡・名地谷遺跡

平安時代の窯跡群である。須恵器窯跡である。

 

・ 三番そう

五箇の氏神の愛宕神社の秋祭りに奉納される郷土芸能である。基本的に能の翁と同じと言われていて、一番そうは千歳、2番そうは翁、三番そうは揉(もみ)の段、問答、鈴の段に当たる次第を、次々に舞っていく。舞手の少年が、クマドリの化粧で登場することや囃(はやし)にカゲとよばれる拍子木があること等、歌舞伎の色が濃いとも言われている。江戸時代、文化文政期にさかのぼる古い芸能だと言われている。京都府の登録文化財(無形民俗文化財)にも指定を受けている。

 

・ 八幡神社のムクロジ

ムクロジ科に属する落葉高木で、本州中部以西の暖帯や亜熱帯に分布する。樹幹は通直、樹皮は帯黄褐色でなめらかであるが、外皮は厚片となってはげ落ちる。八幡神社は、創立時期は不詳であるが、天保12年(1842年)の『丹哥府志』には記されている古社である。ムクロジは中国から入って神社や寺に植栽され、それが野生化したものいう一般的な見解と一致する。「八幡神社ムクロジ」は、樹齢400年程度と推測され、根元周も7.1mを測り、ムクロジとしては全国トップクラスの大きさである。京丹後市指定文化財となっている。

 

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