「我儘(わがまま)」と「我慢(がまん)」

 「背のびしているよい子」の不登校は、「我慢する子」から「我儘な子」への脱皮の作業の一つであるとも考えられます。「我儘」と「我慢」について考えてみたいと思います。

 ある子どもが、不登校をはじめた頃、泣きながら母親に訴えた言葉です。
 「妹はいい。妹がうらやましかった。妹は、ワガママだけど、可愛いから、家族のみんなは小さい頃から何でも妹のワガママを許してきた。私は、もともとガマンする方だから、いつでもガマンさせられてきた。私は言いたいことも言わず、ほしい物もガマンしてきた。私がガマンすることで、家族みんながうまくやってこられた。私だってワガママでいいのならワガママになりたい。こんな不公平に、もう私はガマンしない。」

 知ってか知らずか、この子どもは「我儘」と「我慢」に潜むものを対比的に実にうまく表現しています。

我儘な子は、表記される文字のごとく「我がまま」なのであって自分の意に従って行動しており、あるがままの自分を認めてもらいやすく、周囲の者に対する気配りには鈍感であることが多いのでしょう。
一方、我慢する子は、堪え忍ぶ子、辛抱する子、忍耐強い子です。


 子どもが自分の感情を出すと「ワガママだ」ととらえる親は多いと言えます。これは、大抵、子どもの自己主張や飾らない剥き出しの感情というものは、親からみて不安なこと、不快なことが多いためではないかと思われます。

子どもの身勝手な自己主張は、親にとっておそらく不愉快であることが多いため、「我儘」な子はダメ、「我慢」できる子は善しという世間一般的な構図ができあがってくるのではないかと考えられます。


 ところが、よくよく考えてみると、そうばかりでもないことに気づいてきます。この子どもの言葉を借りて言うならば、「私がガマンすることで、私のおかげで」という「我慢」は、文字通り「我の慢心」という側面をその一方ではらんでいます。
辞書的意味からみると、広辞苑によれば「@自分をえらく思い、他を軽んじること。高慢。A我意を張り、他に従わぬこと。我執。強情。」という意味を「我慢」はもち合わせています。
我慢する子、我慢できる子は、本来的にそういった性質、行動の特徴もどこかに兼ね備えているものなのかもしれません。
常に自分を押し殺して、堪え忍びながら辛抱して他人の考えや行動に合わせるということは、その一方では我を張り、他者の人格を軽んじていることに他ならないとも考えられるわけです。

我慢しない、できないということは、それだけ柔軟で我意を張らずにいられるということなのかもしれません。
 「我慢」がよくて「我儘」がダメという構図は、全ての親と教師が一考を加える価値があるのではないかと思えてきます。
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